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路地裏旅行社: 「旅」と「旅行」の間には

旅に出ると俳句が作れないのはなぜだろう。旅に出るたびに歳時記と句帳を持っていくのだがまず開いたことがない。旅の途中でふっと句が出来ることもない。旅先で名句をものしたことなど一度もない。なぜなんだろう。

私の場合のとは国内では鉄道に乗ることであり、海外では路地裏を歩き回ることである。旅に出るととにかく忙しい。時刻表を繰る、次の乗り換えを考える、昼食をどこで何を食べるかを調べる、今夜どこに泊まるかを決定する。常に五感理性がフルに回転している。

鉄道に乗っているときは膝に時刻表、右手に地図、左手にメモ帳、窓にお茶。車窓に流れる景色を一片たりとも逃したくない。出来れば靴を脱いでシートに正座し両手を窓にかけたいくらいなものなのだ。

要するに旅先ではインプットと情報処理が先行してアウトプットどころではない、ということなのだ。はのんびりするものでしょう、というお言葉は解る。解るけれども、 いったん旅に出てしまうと、そこはもう段取り情報収集状況判断現場処理というまるで仕事並みの事務能力を要求される修羅場なのだ。で、それがおもしろい。情報が少ない海外ではなおさらのことだ。

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そんな修羅場の旅は「旅」とは言わないのだろう。それは「旅行」である。「旅行」は「行くこと」の途中経過を楽しむことなのであって、私のは「」ではなく「旅行」 なのだ。道中なんのアクシデントも起こらず情報収集と意志決定を要求されない旅はもはや私にとっては「旅行」とは言えないのだ(なのでツアー旅行がイヤなのだ)。

「旅」は、ゆっくりとカタツムリの速度で動き、蟻のように地を這い、烏の目で山を眺め渡すことの出来るものなのだ、と 思う。「旅行」は旅のシステムをリアルタイムで楽しむこと、「旅」は旅のシステムが提供してくれる結果を楽しむこと、ということが出来るのではないか。

どちらが良くてどちらが悪いということではない。ただ、句を作るには「旅行」 は忙しすぎて向いていないんだな、ということなのだ。私はいまだに「旅行」が好きで、なかなか「」 ができない。それが旅先で句を作れない一因なのだ、ということにしておこうか。

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