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塩素消毒百年と二人の医師のこと

浅見 真理
論説委員
国立保健医療科学院

2021年は日本で水道の消毒に塩素が導入され百年目にあたる。新型コロナウイルスによる社会的影響は計り知れないが、水中で塩素が効くため、今回のコロナ禍でも、塩素消毒が義務づけられている水道による手洗いでの感染予防が、まだしも奏功していると思う。この水道の塩素処理は、都市計画の父、後藤新平氏が導入したと言われる。本稿では衛生の役割と他分野との連携の必要性を、アフガニスタンの用水路を作った中村哲氏への追悼と共に紹介したい。

江戸時代の日本には、し尿を集め田畑の肥料にするシステムがあり、いわば微生物も鎖国状態にあった。しかし1800年代後半、開港した港からコレラ、赤痢などの病気が入ったのである。東京では、1900年頃からろ過した水道が給水されていたが、全国で年間10万人程度の水系感染症の患者発生があり、世の中が大きな不安に陥れられていた。そのため水道の普及が進められたが、水系感染症の撲滅までにはなかなか至らず、むしろ患者数が微増していた。

元国土交通省の竹村公太郎氏(現:日本水フォーラム代表理事)によると、水道の塩素滅菌に使われる「液体塩素」が開発されたのが1918年である*)。シベリア出兵時に陸軍から毒ガス製造用に開発された塩素発生装置が、1921年に民生用として水道水の殺菌に転用されたといわれる。これを取り入れたのが当時の東京市長、関東大震災後には帝都復興院総裁となった後藤新平氏ではないかと言うのである。同氏はドイツのコッホ研究所で医学博士号を取得した細菌学の専門家であり医師である。シベリアで外務大臣として「液体塩素」と出会い、その後、「液体塩素で水道水を殺菌すべき」と考えたのは必然だろう、と竹村氏は指摘している。この頃を境に東京の乳幼児死亡率が改善しており、日本の保健衛生史上の特筆すべき出来事だったと言われている。

その後、第二次世界大戦後日本全国に塩素の消毒が徹底されたことも、1945年以降の都市部の衛生向上に大いに貢献した。ちなみに、私の職場(科学院)の前身の公衆衛生院(1938年建設:内田祥三設計:現港区立郷土歴史館)では、ろ過の実験施設が建物の正面玄関中庭の池として位置しており、公衆衛生の中での水道の重要性を、ひしひしと感じていた。

20190413白金台

写真:旧国立保健医療科学院白金台庁舎(執筆者提供)

世界に目を向けると、まだ安全で十分な水が確保できない国、地域は多い。アフガニスタンでは、空爆や干ばつにより食糧不足になり、水がなく、手や体を洗うことができないことが、軽微なはずの疾病により子どもや老人が命を落とす原因となっていた。2001年からアフガニスタンにおいて無償で医療を提供してきた中村哲医師は、水と食糧が重要であり、同国東部のかつての穀倉地帯に用水路を引く必要があると考えた。2003年のことである。当初土木技術や用水路に関する知識はなかったが、雪解け水や蛇行による難点が多い中、江戸時代から日本で使われていた蛇篭(鉄線の網の篭に石を詰める)や柳枝工(りゅうしこう・柳が根をはり強固となる工法)を応用した護岸工事を進めた。また、日本の山田堰(江戸時代の伝統工法)を参考とした、長さ385mの「巨礫積み斜め堰」による取水口と用水路を建設し、年間を通じた安定取水(最大4.5m3/秒)を可能にした。

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画像:アフガニスタン・クナール川下流域の灌漑事業
幹線用水路・水制工・狭窄部盛土の用水路・事業完成後の灌漑農地

「生きるために土を掘り、水を得る。その喜びが平和の礎となる。」として、現地農民の協力を得て全長25kmに及ぶ用水路を完成させ、数十万人の食糧を生産できる3000haの農地の開発・復元に成功した。中村氏と活動を支えた日本ペシャワール会は、この灌漑事業により、2018年に土木学会の技術賞を受賞した。2019年に凶弾に倒れ報道がなされたこともあり、ご存知の方も多いと思うが、中村氏は医師でありながら特殊作業車も操り、地元で維持できる技術を導入した土木技術者でもあった。この場をお借りして深い追悼を申し上げたい。

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画像:アフガニスタン・クナール川下流域の灌漑事業
マルワリード取水堰とカシコート取水堰

このように水と衛生は、土木工学の重要な要素の一つである。清潔で悪臭のしない都市、公衆衛生の整った都市への憧憬は都市の発展の大きな原動力の一つであった。土木と医学など他分野の技術やニーズが、飛躍的な進歩をもたらしたと考える。今後も空間情報、計測技術など変化の早い分野の成果を一層取り入れて、進めることが重要と考える。これまで以上の交流と発展を祈念したい。

*) 竹村公太郎(2014) 『日本史の謎は「地形」で解ける【文明・文化篇】』 PHP研究所.

本文中画像出典:平成29年度土木学会賞HP
http://www.jsce.or.jp/prize/prize_list/p2017.shtml

土木学会 第166回 論説・オピニオン(2021年3月版)

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