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世界史を化学の視点から見ると【書籍紹介】

ニューヨーカーがニューアムステルダマーとよばれない理由は,小さな分子,イソオイゲノールにあります。オーストラリアがポルトガル語を話さないのは,ビタミンCが原因です。世界史上の大事件には,化学が見えない形で関わっています。本書は,化学と世界史の関連性を解説した1冊です。

スパイス,爆薬,医薬品
P. ルクーター,J. バーレサン,小林力訳
中央公論社

 本書は,世界史を化学の視点で捉え直すと,どのように見えるかを解説した一冊です。とは言っても,化学の難しい話は出てきませんし,極端に言えば化学のわからない部分は「ふーん」くらいで斜め読みしても十分に理解できます。ただ,著者も述べているように,本書を通じて化学構造の読み方をある程度理解して,世界が広がることを感じることができればと思います。

世界史を変えた17の化学物質

 本書は,以下の17の化学物質について,歴史的経緯,科学者たちの行動,物質の性質などの観点で解説しています。

第1章 胡椒、ナツメグ、クローブ 大航海時代を開いた分子
第2章 アスコルビン酸 オーストラリアがポルトガル語にならなかったわけ
第3章 グルコース アメリカ奴隷制を生んだ甘い味
第4章 セルロース 産業革命を起こした綿繊維
第5章 ニトロ化合物 国を破壊し山を動かす爆薬
第6章 シルクとナイロン 無上の交易品とその合成代替品
第7章 フェノール 医療現場の改革とプラスチックの時代
第8章 イソプレン 社会を根底から変えた奇妙な物質
第9章 染料 近代科学工業生んだ華やかな分子
第10章 医学の革命 アスピリン、サルファ剤、ペニシリン
第11章 避妊薬 女性の社会進出を後押しした錠剤
第12章 魔術の分子 幻想と悲劇を生んだ天然毒
第13章 モルヒネ、ニコチン、カフェイン アヘン戦争と3つの快楽分子
第14章 オレイン酸 黄金の液体は西欧文明の神話的日常品
第15章 塩 社会の仕組みを形作った人類の必須サプリメント
第16章 有機塩素化合物 便利と快適を求めた代償
第17章 マラリアvs人間 キニーネ、DDT、変異ヘモグロビン

 興味のあるところから読んでも構いませんが,それぞれの順番に関連性があり,大航海時代の次には長期の航海で問題となった壊血病の治療法,植民地支配とプランテーション,爆薬の発明からダイナマイト,染料から製薬とそれぞれの話題はつながっています。

イソオイゲノールが変えた歴史

 イソオイゲノールはナツメグに含まれています。ナツメグは香辛料としても貴重でしたが,同時に欧州で時折流行した黒死病,つまりペストの予防効果がナツメグにはあるとされていました。香辛料,予防薬,いずれもナツメグ特有の香りの成分,イソオイゲノールがその効果を発揮しています。もちろん,イソオイゲノールにペストを癒やす効果があるわけではありません。イソオイゲノールは天然の殺虫剤として働き,ノミを遠ざけることでペストへの感染を防いだ可能性があるのです。
 この貴重な資源は,ルソン島を含む東アジアでしか採れません。この地域はほぼオランダの支配下にありましたが,ルソン島のみがイギリスの支配下にあったのです。オランダがナツメグ貿易を独占するためには,ルソン島が必要です。このルソン島を巡るオランダとイギリスの戦争は,ブレダ条約で解決します。オランダはマンハッタン島を放棄し,ルソン島を手に入れました。そしてマンハッタン島のニューアムステルダムは,ニューヨークと改称されたのです。イソオイゲノールという分子の効果が,歴史を変えたのです。

化学構造が似ていると性質が似る

 化学構造は目に見えない分子の形と性質をわかりやすく示した設計図のようなものです。最初は知らない言語のように,見ても意味がわからないかもしれませんが,その使い方に慣れれば(たとえば他言語をしゃべるように),さまざまな情報を得ることができます。先程のイソオイゲノールの化学構造は以下のように表されます。

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イソオイゲノール

 これを唐辛子のカプサイシン,生姜のジンゲロンと比較してみましょう。

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カプサイシン

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ジンゲロン

 どれも六角形構造とその周りは,とても良く似ています。つまり,私たちが「香辛料」とよぶものは,化学構造が似ているため,同類の効果を持つのです。

壊血病で死者を出さなかった名艦長クック

 大航海時代,長い船旅は壊血病との戦いでした。壊血病はビタミンCの不足によって起こりますが,長い航海の間に新鮮な野菜や果物を常に補充することは難しく,また肉とカチカチのパンこそが海の男の食事だと考えている船員は野菜や果物を食べないことも問題でした。そこでイギリスのクック艦長は,ザワークラウト(キャベツの漬物)を食べるようにしたのですが,船員は食べようとしません。そこで艦長は一計を案じ,見事船員たち自身に「ザワークラウトを食べさせろ」と行動させることに成功します。ビタミンCの補給を欠かさなかったことで,長い航海中に壊血病の死者を出さなかったクック艦長は,ハワイ島,グレートバリアリーフの命名,初のニュージーランド一周,太平洋北部海岸の測量,南極圏突破など数々の業績を打ち立てました。これにより,オーストラリアはイギリス領となり,ポルトガル語ではなく英語が公用語になったのです。
 ビタミンCといえば柑橘類,とくにレモンが連想されますが,初めて純粋なビタミンCの結晶が見つかったのは雌牛の副腎皮質にある油でした。発見者のセント=ジョルジは,後にビタミンCを大量に得る方法の開発に成功してノーベル医学生理学賞を受賞することになります。そして,工業的に大量生産されるようになったビタミンCは,現在は酸化防止剤,防腐剤として活用されています。食品の腐敗や劣化を防止することで,私たちは豊かで安全な食生活が送れるようになったのです。

見えない形で世界を支える

 化学が対象とする分子そのものは,私たちの目に見えません。しかし,その小さな分子が,私たちの世界を時に支え,時に変えてきたのです。文系や理系という括りは単なる学習上の分類であって,この広く不思議な世界にはそのような区別はないことが本書を読むとよくわかります。
 本書では,日本の伝統産業,藍染めに関わる話も紹介されています。私たちにとっては,伝統産業が化学工業によって衰退したのは残念です。しかし,化学工業は染料によって儲けた資金で,製薬に乗り出します。私たちの病気や怪我をくすりで治すことができるようになったのは,染料の化学合成が可能になったお陰なのです。
 さまざまな事実が小さな分子によって繋がっていることを知り,化学構造からその性質を予測できることがわかると,視野は大きく広がります。文理融合のこの時代に,ぜひ読んでみてほしい内容です。


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