Myself
はじめに
伝えたいと思って書いているのに、全然伝えたいことを書けません。
どうもこんばんは、Jr.です。
ここんところずっと、「仕事」について考えていました。
というのも、大学教授との面談で、「君にVisionはあるのか?」と尋ねられて答えられなかったり、
バイト先の主に「何のために仕事をしているのか問い続けろ」と言われたり、
というようなことがあったため、これを機に、仕事について少し考えてみたので、つらつらと書き綴っていきたいと思います。
結構長くなってしまったし、まとまりもあまりないので、僕が言いたかった事だけ先に書いておくと、
自分と他者とのバランスが難しいと最近感じていたのですが、急がず焦らず、マイペースで楽しくやっていけたらいいな。
と思ったというお話です。
おしまいおしまい。
ではまた次回。
🐝🐛🪱🦋🐌🐞🐜🪰🪲🦟🕷
もし時間あるよという方は、この先を読み進めてもらえたら嬉しいです。
はじまりはじまり。
過去
これから先、僕はどんな仕事をしていきたいのか、誰を喜ばせたいのか、何を創りたいのか、とかとかを考えていく上で、これまで僕が、どんな事をしてきたのかについて振り返っていきたいと思います。
最近読んだ知り合いのnoteの記事に、以下のようなことが書いてありました。
僕もそんな感じだったので、この言葉にとても共感しました。
ただ、この文章を読んで、確かに高校生までの18年間、明確なゴールがあったけれど、そのゴールははたして自らの意思で決めたゴールだったのだろうか?という疑問が浮かんできました。
過去の僕は、「試合で勝つ」であったり、「いい大学に合格する」といったゴールは、僕が所属するコミュニティ(あるいは、コミュニティの中にいる、例えば親や先生といった人達)の中で正しいとされているゴールを追いかけていました。
そういった、コミュニティの中で形成されている価値観に沿ったゴールを目指すことに対して、自分の意思が全く含まれていなかったか(0%だったか)と言われれば、それは違うと思います。ですが、100%自分の意思でゴールを決めたかと言われれば、イエスとは言えないなと、振り返ってみて感じています。
つまり、高校生までの自分が目指していたゴールは、「どちらかと言えば」自分で決めたゴールではかったと感じています。
現在
高校を卒業して、1年間浪人したものの、無事に第1志望の大学に合格できました。大学でも部活に入って、まぁまぁ良い成績を残すことができました。
親や先生やクラスから遠ざかる大学では、高校までの「圧力の強い」コミュニティは存在せず、(今思えば)自分の意思で行動しやすかったのですが、実際には高校の頃とあまり変わらず、「どちらかと言えば」自分で決めたゴールを追いかけていませんでした。というか、部活以外ではゴールも特に定めていませんでした。笑。
そんな、高校の延長線上のような日々を送っていた僕でしたが、大学3年生の終盤くらいから、ようやく自分の進路についてちゃんと考え始めました。
考えたといっても、「就活はしないだろうから、このままどっかの研究室行って、どっかの会社に入って、なんらかの研究者になるのかなぁ〜。うーん。なんだかなぁ〜。でも目指したいゴールとかないしなぁ〜。」というよな感じで、考えたと言うより堂々巡りをしていたと言った方が正確かもしれません。
下手の長考休みに似たりと言うやつです。
そんなふうにして悶々としていた時期に、コロナウイルスが世界を襲い始めました。そして、人間の「不要不急」の活動が止まりました。
夜中にスケボーをする人たちで賑わっていた近くの公園には、人が誰もいなくなりました。びっくりするくらい静かなの公園のベンチで、ほろよいを片手に一人で佇んでいた時に、「そうか。人はいつ死ぬか分からないんだ。決められたことなんて何もないんだ。」という、よく耳にするようなありふれたことを、僕はようやく「実感」しました。
人はいつ死ぬかわからない。だったら、いつ死んでも後悔しないような今にしよう。僕はそう心に決めました。それからは、「何になりたいか」ではなく、「何をやりたい」を基準に考えることにしました。
そのような基準で考えてみると、このまま今まで通り、自分の意志を持たずに、流れに身を任せる生き方をしていたら、死んだ時に後悔するという予感がしました。
その予感と自粛生活のストレスが抑えきれなくなり、大学を休学して(当時はやめるつもりで)、社会に出て働き始めることにしました。それを父に伝えると、普段は「好きに生きろ」しか言わない(盛ったかも)超放任主義の父から、2つだけ伝えられました。
自分の好きな事をしろ。
人の役に立つ事をしろ。
「なるほどなるほど」と、素直に受け取ったピュアな僕は、考えました。
好きなことについて。
「これまで10年くらいサッカーを続けてきて楽しかったので、今度は20年くらい楽しく続けられること(仕事)をしてみたいな。」
人の役に立つことについて。
「僕の力が最大限発揮されて、より多くの人・より大きな役に立つことをしよう。」
そして、当時読んだ本の影響もあって、楽しそう&より多くの人に関わる「まちづくり」に携わりたいと思って、そういった仕事を選択しました。
役に立つことについて僕が考えたこの考え方は、最近読んだ本に書いてあった、効果的利他主義(効果的利他主義は、他者に貢献して社会をより良くするうえで、効率とインパクトの最大化を目的とする考え方)に近い気がしています。
幸福について考えるときも、最大多数の最大幸福(社会の最大多数の人が最大限の幸福を得られることが望ましいとする。)の考え方をすることが多い気がしています。
ということで僕は、自分という資源をどのように使えば、より多くの人の役に立てるのかということを考えました。
僕がこういう考えをする背景に、思い当たるものがあります。
鬼滅の刃で僕が一番好きなセリフがあるのですが、それは、少年時代の煉獄杏寿郎に母である煉獄瑠火が言うセリフです。
これは、ノブレスオブリージュ(19世紀にフランスで生まれた言葉で、「noblesse(貴族)」と「obliger(義務を負わせる)」を合成した言葉。 財力、権力、社会的地位の保持には責任が伴うことをさす。 身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるという、欧米社会に浸透する基本的な道徳観である)の考え方にも近いのかなと思っています。
この僕の考え方の背後にあるのが、僕の中にあるナルシシズム(俺はできるやつだ精神)から来ているのだと思います。そうです、僕はナルシストなのです😅。そして、それを治そうと思ったことは恐らく一度もない気がします。笑。
え、ちょっと待ってください。もう少し話させてください。
noteのアプリを閉じないでください。
ただ、ただですよ。
「自分はできるやつだ」というナルシシズムは昔と変わっていないし、これからも変わらないと思うのですが(変える気ないんかい)、昔と変わった・変えようとしてるのは、「何をもって自分をできるやつだとするのかを自分で決めようとしている」ことです。
ナルシズム亜種?
前述した通り、昔の僕は、「試合で勝つ」であったり、「いい大学に合格する」といった、自分の属するコミュニティの中での価値観に沿ったゴールを目指していました。そして、そのゴールは、純粋に自分の意思で決めたゴールではなかった。言い換えるなら、自分が「主体」ではなかった。
大学にいっても、それは変わらず、そのまま社会に出るところでした。
そうなったらきっと、自分のゴールは、給料であったり、会社のネームバリュー、SNSのフォロワー数など、そういったものになっていたと思います。別に、それを追い求めることが良いとか悪いとかではなく、「自分の意思」で追い求めているゴールなのか?という話です。
とにかく、そんなこんなで、現在の僕は、父の教えに従い、
「自分の好きな事で、人の役に立つ事」をしようとしてきました。
そして、壁にぶつかりました💥。笑。
それは、「好き」と「役に立つ」のバランスが難しいという問題です。
言い換えるなら、
・自分の好きなことが(最大限の)人の役に立つのか
・(最大限の)人の役に立つことが自分の好きなことなのか
ということです。
具体的にいうと、アルバイトとかでする仕事(接客とか、教師とか)は結構好きだけど、接客できる・教えられる人が限られている。でも、まちのことを考える仕事は、対象は広いけど、好きじゃなかったりすることも多い。
という感じです。
これは、まちづくりに携わりたいと思ったときに感じた課題でもあります。まちに住んでいる一人一人のミクロな視点と、まち全体を見るマクロな視点。どっちかだけではいけないんだろうな。と感じていました。
そんなこんなで、「自分」と「他人」、「好きなこと」と「役に立つこと」のどちらに重心を置けば良いのかわからず、壁にぶつかっていました。
未来
ここまでが、最近ずっと考えていた事です。
冒頭にあった、「君にVisionはあるのか?」
これに対する結論はまだ出せていません。
ですが、最近、とある人がこんな事を言っていました。
すぐに結論を出さずに、もっと色々なものに触れて、自分の気持ちにちゃんと向き合って、少しづつ進んでいきたいなと、今は考えています。
来年からは、大学に行きつつ、ブックカフェをやりたいと思っています。
効果的利他主義(効果的利他主義は、他者に貢献して社会をより良くするうえで、効率とインパクトの最大化を目的とする考え方)に近い僕としては、カフェ事業より他の事業をした方が良いとなってしまいます。
でも、僕はカフェ事業を自分の意思で「やってみたい」。
そういうふうにして毎日を積み重ねていって、「自分の好きな事」と「人の役に立つこと」を広げていけたらなと思います。
イーロンマスクさんのように、「ロケットを飛ばす」と「世界を救う」みたいな規模感までいくのは難しいかもしれませんが、僕が死ぬ時に、悔いを残さず、胸を張って死んでいきたいです。
こういった、「自分」と「他者」のバランスが取れた状態を、「波の中に雫のある状態」と誰かが言ったそうです。聖徳太子の言う、「和して同せず」にも通づるものを感じます。
「はじめに」でも述べたのですが、最後に、僕が言いたかった事をまとめると、
自分と他者とのバランスが難しいと最近感じていたのですが、急がず焦らず、マイペースで楽しくやっていけたらいいな。
と言う話でした。
余談
仏教には「無我」という言葉が存在するらしく。。
今まで、「自分」や「意思」について語ってきましたし、これからも自我を丸出しで生きていくつもりですが、もっともっと大人になって、成熟していったら、もしかして、もしかすると、僕も無我の境地に辿り着けるのかな?なんて淡い期待を始めました。
おしまいおしまい。
ここまで読んでくださった読者の皆様、ありがとうございます。
何か感想や意見などがあれば、コメントしてもらえたら嬉しいです!!
最近、自分のマネジメントが全くできていません😅。
お盆も終わったので、また気を改めて、頑張っていきたいです。
おわりに
今日は、浪人時代の帰り道に、電車の窓から見える空をぼんやり眺めながら聴いていた歌を紹介して、お別れにしたいと思います。
もっと真っ直ぐ生きてぇ。
ではまた次回。
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