漂流教室 No.11 これからの国語教育?
ちょっとまじめなお話を。
実業界あたりで、こんなご高説があるそうな。
「古文や漢文なんて、実社会ではなんの役にも立たない。
こんなカビの生えたような教科を高校の授業でやるのは無駄の極み。」
ふむ。
こんなご説もある。
「小説なんて読むのは無駄。社会生活には不必要」。
だから高校のカリキュラムは変えねばならぬ。
「高校国語は実用文や解説文をやれば十分。」
実際に、これからの高校国語は実用文の読解主体となります。
文芸的な文章や古典は必修ではない。
少なくとも高等学校卒業に必要な単位には含まれない。
さて、大学受験では文芸文や古典は出題されます。
だから、大学入試をにらんだ授業をする高校では授業でも取り扱う。
いわゆる進学校ですね。
でも、これも「現時点では」というお話で、
理系の大学や理系の学部ではずいぶん前から小説や古典は必要ないところもある。
おととしまでのセンター試験では小説、古文、漢文は出題されていましたが、
「古文、漢文の成績なんか見ないよ」という大学、学部はけっこうあった。
現在の共通テストでは、いまのところ文芸的文章と古典は出題されていますが、
さてさて、いつまで続きますかな?
古文漢文不要論に対してはこんな反論を聞いたことがあります。
「古典は現在の日本語の基礎である。基礎を知れば現在の日本語を使いこなせる」
ほう、現代語を使いこなすための知識ですか。
小説不要論に対する反論。
「小説は人間の心の機微を表現する。他人の気持ちを推し量る訓練となる」
うん、実生活上で役に立つと。
どちらも、
「これを学べばこんなベネフィットがあるよ」
といっているようです。
でもなあ、ベネフィット、無きゃいかんもんですか?
ベネフィットがないと無意味なのかなあ?不要なのかなあ?
私は、学校教育、とりわけ高校教育は先人たちが営々と積み重ねてきた英知を後代へしっかり渡していくことだと思っています。
先人たちの残してくれた英知は実にさまざま。こんなに多岐にわたるものもない。
数学、哲学に始まり、諸科学に歴史、音楽や美術等の芸術、そして文学。
もちろん、医学、工学、経済学、法学等の実学もある。
これらすべてを学ぶのは到底無理でしょう
でも、子どもたちに先人の残しくれたものをいくらかでも伝えておくことは、
文化国家に住まう大人のつとめではなかろうか?
いつの頃からか、高校では選択科目が増やされてこんなことになっています。
「日本史?中学でやったかなあ・・・」
「地理?うーん、覚えがない」
「化学と物理学ですか。文系なもんで、やってません」
「生物学はやりませんでした。だって理系だから」
私なら、古典を含む国語、英語、数学と、物理、化学、生物、地学、日本史、世界史、地理、倫理、政治経済、体育実技と保健体育、そして芸術は必須の教養だと思います。
大人は、子どもたちに
「これだけは学んでおけ」
と、自信を持って提示する義務を負うと思います。
そりゃ、得手不得手はある。
でも、自分には到底理解できないけれど、
なにやら深遠なる学問世界がそこにあるってことを知るのは
とても大事なことではないでしょうか。
さて聞くところによると、大学でもどんどん教養科目が減らされているらしい。
およそ四十年前の国文学を学ぶ学生(つまり、私)は
教養部の地学や哲学、科学技術史の講義を聴いて、
「おもしろいなあ」と、感じていた。
ただし数学がトポロジーでね、何が何やらさっぱり・・・
なんなんだよ、クラインの壺って。境界がないだとか、表裏がないだとか。
「先生、気は確かですか?」
と質問しそうになったのを覚えています。
でもまあ、世の中にこういうものがあると知っただけで収穫だったかな。
何より、トポロジーを語る教授が楽しそうだったから、
「いいなあ」とは思った。
楽しそうに語る人を見るのはいいもんだ。
私も出来るだけ楽しそうに古典を語りたいのだが、
はてさて、うまくいっているかどうか・・・
「気は確かですか?」と言われはすまいか・・・
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