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まだ続く『土佐日記』。仮名で書くとは日本語で書くということ。

フウちゃん(誰でしょう)がばあさんのワクチン接種の予約をしてくれました。電話がなかなかつながらないと聞いていたけど、ネットだとすぐにできたとか。すぐにつながったって。やはり高齢者のみなさまは「ネットでご予約を」と言われても難しいんだなあ。皆さん電話を利用するようだ。

ばあさんはこれでひと安心として、私はいつワクチン接種してもらえるんだろうか?もうすぐ60歳だが、プレ高齢者ではないのかな?

さて、土佐に赴任したときの紀貫之は60歳くらい、60から新しい仕事をするなんて、貫之さん、エラいなあ。

紀貫之は土佐から無事帰京して悠々自適の生活を送ったことだと思います。で、隠居生活を使って書いたのが『土佐日記』。
いろいろと思い出しながら書いたんでしょうなあ。
さて、懸案の「なんで仮名で書いたの?」については、いろんな考え方や見方があるんですが、ここでちょっと、文章を仮名で書くということの意味を考えましょう。

当時、漢字のことを「真名(まな)」と言いました。「真」は「本当」です。で、真名に対してひらがなのことを「仮名」と言う。
漢文は「真名文(まなぶん)」で、日本文は「仮名文(かなぶん)」です。
カナブン・・・堅い虫みたい。

当時の貴族たちが日常的に漢文で記述していたことは以前にお話ししました。仕事上の書類も自分の日記も。これらはいわば客観的な文章です。自分の思いや感想は書かない。

だから貫之はこう考えたのではなかろうか?
土佐であったことや体験したこと、そしてそれに対する自分の思いを書いておくためには漢文では堅すぎる。情緒的なメッセージはやっぱり日頃使い慣れた日本語でなきゃ。

実は貫之は以前、仮名文を使って自分の意見を堂々と表明したことがあります。
『古今和歌集』の「仮名序」です。

「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ、繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。
花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。
力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をもやわらげ、猛きもののふの心をもなぐさむるは、歌なり。」
(和歌は人の心を種としてあらゆる言葉となった。世の中の人はいろいろに関わるものなので、見るもの聞くものにつけて和歌を口にするのである。花に鳴くウグイス、水にすむ蛙の声、どれが歌でないものがあろう。和歌は力も入れずに天地を動かし、鬼神にもあわれを催させ、勇猛な武士の心をも慰めるものは、和歌である。                 訳・・・私)

実にみごとに和歌のすばらしさをうたいあげている。
みんなが漢文ばっかり書いていた時代に、いきなりこんな格調高い日本文が書けちゃう、紀貫之の言語感覚ってどうなってるんだ?

この人が、「よし、書くぞ!」って腹を決めたんなら、そりゃ、仮名文を書きます。

ということで、『土佐日記』そのもののお話は次回ということで・・・。
もうちょっと書きたかったんですが、いまちょうど中間テスト前でして、テスト作んなきゃ。
でも、テストが終わると採点しなきゃ。

いかん、仕事より大事なnoteが滞ってしまう・・・。

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