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カブキモノ

 なかなか抜けられなさそうな沼に自ら嵌まって、案の定抜け出せなくなっている。
 西村賢太『やまいだれの歌』を読んだ。十九歳、北町貫多の卑屈や欲望、見栄、恋愛、自我、孤独。格調ある文体とリズムで描き出されたそれは、まさに「文芸」であった。本当に面白い。私はこういう表現者が好きだ。昨年来、武者小路実篤、谷崎潤一郎ときて、今現在、西村賢太にいたっている。文学上の分け方は分からないが、こういう人たちの作品の、純朴で無骨な人間のにおいに、私はかなりの高確率で虜になってしまう。生来のものを生かし切った、という感じがする。
 『やまいだれの歌』はそのタイトルの、歪んだ響きに捉えられ、思わず手に取ってしまった。西村賢太の作品は、どれもタイトルにキラリと光るものがあり、中身は相変わらず北町貫多の日々であるのに、やはり何度も手に取りたくなる。
 内弁慶で小心者であるにもかかわらず、どこまでもローン・ウルフでいたく、変な度胸を持っている点…これ、私だったかしら…とつい共鳴し、苦笑する。

 ところで、この本はお稽古の帰り道、駅に隣接するデパートで買ったのだが、その時、一緒に美輪明宏の『乙女の教室』も購入した。

 レジの上に西村賢太と美輪明宏がお行儀よく並んでいる。

 『やまいだれの歌』と『乙女の教室』は、その組み合わせによって、私と店員さんの間に、妙な強さを感じさせる不思議な時間を生み出した。
 しかし、よく考えてみれば、この二者はどちらも自分の「スタイル」を持っていて、奇抜ながらもそこには品格が備わっている。"根がどこまでもスタイリストに出来ている"北町貫多こと西村賢太と、お品よろしく、乙な女の生き方を教えてくださる美輪さん、彼ら(?)の「スタイル」、文章で言えば文体ということになるが、それこそが、あらゆるものとの関係の仕方のように思われ、この人たちのそれは、世間的には面倒なものに見えるのかもしれないが、誰とでも上手くやっていけるための窮屈なスタイルより、私はいくらか面倒なようでも、やはり気骨のあるスタイルを持つ人々、言ってみれば、無頼というような人に魅力を覚える。

 下品や奇抜にしておけば、スタイルができるのではない。
 皮肉という名の愛情や、無関係という関係の仕方、突き放して近付ける、など、少々捻くれとも思われかねないものに、私はつい惹かれてしまう。それは、つまり表現された表現であり、一種の外連味ケレンミとも言えるが、そこにやはり周囲との関わり方というものが見えてくる。それでしか表現しえないことへの、情の深さが感じられる。そういうものを表現する度胸のある表現者たちが、そんなカブキモノたちが、私は好きだ。



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