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『 たまづさ 』

この冬、私は、桃紅さんのように色や形を探りながら書の作品を作ってみたいと思い、硯に向かっていた。が、はやる気持ちと裏腹に求める何かは遠のくようで、ますます書の悩みや思いは尽きず、今日は書道のお教室に行くのもやめてしまった。教室には行かないと決め、他のことをしようと思っていたのに、意識的にか無意識的にか、気がつけば私は、憧れの美術家、墨と100年を過ごした篠田桃紅さんの随筆を手にとっていた。

その中の一抄「たまづさ」を読み、初めて たまづさ という響きのうつくしい言葉を知った。「たまずさ玉梓・玉章」という言葉に、生成りの和紙、手漉きの紙の柔らかさと、その上をゆく筆が濃い墨の跡を残してゆく、そんな場面を思い浮かべた。私が書く手紙も、ボールペンで書いたものをたまづさと呼ぶには趣が違っている気がするし、やはり「たまづさ」には、紙と墨という自然に由来して作られたものがぴったり合うと思う。

紙と墨。私は十年ほどお教室で書を習っている。が、「習字」を離れて「書」という世界に入れば入るほど、それは日常生活とは切り離されたものとなり、「作品作り」においてのみ、書と関わるようになっていた。ただ書く、伝えるという本能的なことを忘れた墨蹟は、お行儀が良いだけの味気ないものに感じられた。

書道のコンクールに並べられる字、金賞銀賞の作品、そういうよそ行きの字よりも、その人の普段の字、普段は活字でしか触れ合うことのない、文筆家たちの手書きの原稿、手紙、家計簿、そういうものに私は惹かれてきた。
コンクールの字は、その人の息遣い、間、流れ、全てを隠してしまう。その人だけが持つ魅力はコンクールに出品する前に朱で直され、書者はかぎりを尽くして自分を失くさなければならない。

『離洛帖』 藤原佐理 筆

桃紅さんを魅きつけてやまない「たまづさ」、藤原佐理の離洛帖を初めて見た時、私はびっくりした。許しを乞う手紙ではあるが、あの文字で謝られたら誰だって許してしまう、そういう気迫すら感じる。桃紅さんが著していらっしゃるように、時間も空間も全てを飛び超え、飛び超えて届けられた想いという感じだった。言葉がなくても伝わる情熱、情念がある。
それは、桃紅さんの作品にもある。
桃紅さんの作品は、桃紅さんにしかない形で生き生きと描かれている。そこに桃紅さんの風雅や気質が感じられる。

整った字を書くことばかり、形ばかりを練習した私は、その文字に想いを託したり、めぐらせたりすることを忘れてしまっていた。上手に書くことではなく、書が何かを想像させたり、思い出させたりするところに書の面白さがあるのだと思う。

・・・、その中の「恐鬱」という文字には、都に在った日とはいたく異なるという気持ちの凝縮が見られ、超えがたい時間、空間の掟を、あえて超えようとするかのような烈しい昂まりが、文章と筆を貫いている。
 そこには、筆に託す心がありありと言葉以上に視覚化されていて、一方的な伝達の強みを利用する力の美学がある。
篠田桃紅 著 『墨いろ』 〜 たまづさ 〜 より

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