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不二霊峰



山王美術館へ日本画壇の巨匠、横山大観の画を観に行った。この美術展は、前からたのしみにしていたのだけれど、想像以上、期待以上に見事な画の数々に私は大変感動した。


扉が重たい機械音を立てて開くや否や、会場には冴えざえとした空気を裾野へ吹きおろす富士の数々。
私の家のカレンダーには、大観とその盟友、菱田春草の絵が隔月交互に出て来る。私はそれを観るたびに感心していたのだけれど、やはり本物は大違いである。

でっぷりとした腹を出して船首に胡座をかく布袋。波はたゆたい、月は天高く小舟を照らしている。私は布袋の目の高さに自分の目線を合わせ、それから布袋と同じように、ぐっと月を見上げてみた。海と空。そこに境目は存在しない。ぽっかり浮かぶ月の清かな光に、茫漠とした夜のしじまが感じられるばかりである。
大観の名に相応しい布袋の掛け物に始まり、数多の富士の画、山の画、独自の技を用いて描かれた水墨画には「わびさび」に通じるような奥床しい香りが漂う。


この展覧会に行く一週間ほど前、信州の山深く、飯田という地で菱田春草の絵を見た。飯田は春草の故郷である。その時にも、私はとても感動したのだが、同じ朦朧体でも、春草と大観では丸切り違っていることに気が付く。
富士の画ひとつとってみても、春草の富士は美しい女神のような感じがするのに反して、大観の富士は雄々しく、頑として動かぬ意志のようなものさえ感じられる。

春草の繊細さと大観のおおらかさ。描かれた富士は、二人の画家の人生をそのまま写した鏡のようにも思われてくる。

万葉集には、

  天地の分れし時ゆ
  神さびて 高く貴き
  駿河なる 布士の高嶺を
  天の原 ふりさけ見れば
  渡る日の 影も隠らひ
  照る月の 光も見えず
  白雲も い行きばかり
  時じくそ 雪は降りけり
  語り継ぎ 言い継ぎ行かむ
  富士の高嶺は

山部赤人

という歌がある。

大観は生涯に一五〇〇以上の富士を描いたという。それはまさに、「語り継ぎ 言い継ぎ行かむ」の心境ではなかったか。私が美術館で観たのは、そのうちのほんの数点だが、それらのどれにも、横山大観という画家が富士に寄せた敬愛や友愛の心が感じられた。

中でも私は、「不二霊峰」という画に心惹かれた。

この画には、渡る日の影も、照る月の光も見えない。雪の降り積もった富士の高嶺には、ただ白雲が過ぎゆくばかりである。そのような姿にこそ、流れゆく時と変わりゆく世の中、いつも泰然としてそこにある富士の雄大さと、貴さが感じられる。

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