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ツバメの庭

職業的嘘つきのための三題噺メーカーより
三題:カーテン/実は馬鹿/つばめ

 レースのカーテンが初夏の風に揺れる。モッコウバラの香りが室内に流れ込み、婦人は電話を持ち上げる手を止めて外を見やった。ふんわりと盛り上がった花群がアーチに絡まり庭を豪奢に彩っている。ツバメがその曲線の下をサッと飛んだ。モッコウバラは本来はバラが苦手とする病気や害虫に非常に強く、棘をもたない。
 電話帳を呼び出してコールする。4度目で明るい女の声が出る。
「どうしたの」
「咲子さん、起こしちゃった?今日、都合がつくなら、うちでお茶でもいかが」
 婦人は後ろでシニヨンにまとめた髪に片手で触れながら言う。咲子と呼ばれた女は、あくび混じりながらも元気に応えた。
「いいよ。今日はひさびさの休みだからね。また新しい花の話?」
「そうなの、新品種のモッコウバラが庭でちゃんと咲いたのよ。それはもう綺麗だこと。香りもしっかり出ているし、従来の白と黄色から、バラらしいピンク色に改良できてるわ」
「大成功じゃん、それは見に行かなくちゃ」
「ツバメも軒下に営巣してて、なんだか夢みたいなお庭だわよ」
 咲子も婦人もクスクスとしのび笑う。婦人はカーテンを大きく開けて部屋に風と光を入れた。リビング兼キッチン兼在宅勤務室になっているその部屋には、4人がけの木製テーブルの上に分厚い専門書と論文の束が積み重なり、真ん中のノートパソコンがほとんど埋没している。
「この間は青いバラだったな、これまでになく真っ青なのだった」
「その前は四季咲きのサクラね。真冬にも咲くようにしたの。あれは結構大変だったわ。イオンビーム品種改良技術に携わってもう長いけど、イオンの種類・スピード・数などを調整し変異率を高めるのも、破壊したい遺伝子だけを狙い撃つのも相変わらずなかなかの難易度よ」
 大量の分子生物学、植物生理学、生命物理学などの本や論文の中に、数葉の写真が混じっていた。真っ青なバラの花束を抱えて笑う真っ直ぐな髪の女。上着にマフラーを巻いた姿で満開のサクラを見上げる同じ女。背が高く、痩せて飾り気がなく、意志が強そうな目をしていた。
「研究熱心でなによりだな。また論文がでかいジャーナルに載るね」
「その時は別刷をあげるわよ。さ、早く身支度して来て頂戴よ」
「わかったって。顔洗ったら車飛ばすよ」
 気をつけて来てね、と婦人が応える。それにしてもさ、と咲子が思い出したように言葉を継いだ。
「なんで花の研究こんな何年もやってんの?それもバラ科ばっかり」
 婦人はさあ、なんででしょうね、と応えて、ピンク色のモッコウバラの庭を飛ぶツバメを見る。
「『若いツバメ』の語源って、平塚らいてうの年下の男の人への恋の事件なんですってね」
「それがどうしたのさ」
「賢い女も惚れた人間の前では愚か者になるんだなあ、っていう話よ」
「だから、それがなんなの」
 婦人は笑って応えない。子供の頃からバラやサクラが好きな咲子に、最高に似合う花をつくりだすためだけに、生命工学の道に進んで今に至ることは彼女だけの秘密だ。八重のモッコウバラはふくふくと微笑むようにゆたかに咲いている。この下に立った咲子は綺麗だろうと思って微笑むと、婦人は電話を切った。

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