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「好き」の形は「好き好き」で良い。

 言葉にしないと伝わらない。
 言葉にしても伝わらない。
 だから、我々は行動する。
 しかし、最近あちこちで見かける「好き」を型にはめる方程式が、どうにも息苦しい。
 会話をしている最中に、ふとした「あれ好きなんだよね」と言葉にすると、一定量以上の知識を求められる。少なくとも、その事象について相手が知らない豆知識の一つや二つを披露しないと、「好きじゃないじゃん」とハッキリ言われる。または「にわか」と鼻で笑われる。自分では無く、他人がそういう目にあっているのを見ても、なんだか気分が暗くなる。
 そもそも、相手がどういうスタンスで、その対象を「好き」なのか。それを確定させない内から、「好き」というのならば、こうあるべきだと他人に決められるのが窮屈だ。これだけ多様性が叫ばれているのに、「好き」という実に様々な可能性と種類を含む感情を一つの様式に当てはめているのは、いかがなものかと思う。
 あらゆるメディアで「好き」を発信する人たちがいて、その「好き」のあり方が広く取り上げられている。注目を浴びたり、取り上げられるということは、その「好き」を示す行為が突出して目を引くものだからである。その人たちは、そうやってその対象を愛でることが「好き」なのだ。でも、その人たちと同じような対象が「好き」であっても、自分にその愛で方が合わないなら、その愛で方が「好き」でないのなら、同じ行動を取らなくても良い。
 対象にまつわる物をコレクションすることが「好き」な人もいれば、その対象を遠くから眺めるだけ満足する「好き」もあるし、なんなら頭の中で思い浮かべるだけで幸せになれる「好き」もある。
 気持ちなんて定量化出来ないものを比べようとするのは不可能だし、そもそも比べる必要も無い。「○○をしていないなら、好きではない」ということは決して無い。何かを「好き」になる気持ちと同様に、「好き」の表し方だって、私たちは自由に選べる。
 あなたの「好き」はあなただけのものだし、私の「好き」は私だけのものだし、上も下も無いし、こうあればならぬということも無い。なので、他人に自分の「好き」を否定される謂われもない。
 心の中。大事に一人だけ抱えている「好き」を持っていても、別に構わないと思う。
 他人の心から無理矢理、「好き」を引きずり出すことなんてしなくても良い。何かを「好き」という想いを持ち、それを「好き」と言葉に出来る人のことが、私は好ましいと思う。だが、この「好き」を説明するのは難しい。恐らく不可能だ。

「これ、好きなんだ(好き以上の言葉では説明出来ないけど)」
「へぇ、(それを好きだと思える貴方の感受性が)良いね」

 これぐらいの行間を読むスタンスの方が、私は「好き」だと思う。

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