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(短編小説)ドライブ・ヒズ・カー


 さっきカーラジオで流れた歌が頭に残ってる。まるで今の私みたいだからだ。けど本心と悟られたくないので、口ずさむのを抑えた。
「昔の歌はいいねえ。感情じゃなくて気持ちを歌ってるもんな。最近の曲は我が強くて聞き流しちまうよ。感性重視で心に残らない」
 運転席でハンドルを握る広田さんは笑いながら毒づくのがうまい。彼の笑顔は素敵だ。本人もそれを自覚していて、三十四歳になっても衰えない万能の必殺アイテムだった。
 でも私だけは許さない。騙されないぞと踏ん張る。けど広田さんは東京を出た時から笑顔のままで、悪びれる様子もない。おとといの夜に突然誘われた、この遠出への反応も判断も私に任せると思っているからだ。
「福井ってなにがあるんですか?」
 私は話題を逸らした。「眼鏡が有名な所でしたっけ?」
「色々あるよ。カニもうまいし、漆器とか近松門左衛門とかさ。芸大の時の友達がいるんだよ。蒔絵職人やってて、自分の店と工房持ったっていうからひやかしに。そいつが古典芸能に詳しくてさ、文楽を一緒に観に行ったりもしたよ。曽根崎心中とか知らない?近松の代表作。女殺油地獄とかさ」
「なんとなく。曽根崎って福井なんですか?」
「大阪だよ。実話を元にしてるんだ。つるは編集者やってるくせになんも知らないんだな」
 広田さんはまた笑った。私は少しむっとした。直後にむっとさせられたと分かってまた腹が立つ。
「地理が苦手なだけですよ。福井って東尋坊があるじゃないですか。そこが心中の舞台かと思ったんです」
「東尋坊ってもう自殺の名所じゃなくなったらしいよ。スマホゲームでモンスター出るようになったら、ファミリー層わんさか来て、飛び込む人いなくなったってさ。いいことなんだろうけど、ロマンはなくなったよな」
「心中ってロマンですか?」
「なにかあればあそこから…っていう心の支え的な意味だよ。明日辺り行ってみる?」
 こともなげに提案する広田さんに私は黙った。一緒に死ぬ気なんてないくせに。本当にずるくて憎たらしい人だ。
「おっ、あと3キロだって」
 燦々と繁る若葉の山道を抜けると、まさに盆のように丸い形の平野に町が現れた。全体的に建物は低くて見上げなくても空がある。私はほっとした。
知り合いがいない土地に来れたことに。
 ここなら人の目を気にしないでいい。安心して彼の隣にいられる。いつも慌ただしく会う。付き合って一年近く経つけれど、二人で旅行など滅多に来れないからだ。
 理由は簡単。広田さんは結婚してるからだ。フラワーアーティストをしている七歳年上の沙織さんという奥さんと、彼女の連れ子の九歳になる双子の女の子がいる。沙織さんの前夫はドイツ人だったので、ハーフの娘さんたちは天使のように愛らしい。二人とも広田さんにべったりで、彼も実の娘のように可愛がっている。
 女性誌の編集者をしている私は、沙織さんと撮影で何度か仕事しており、
昨年の七月に行われた彼女の個展のオープニングパーティーで、初めて夫である広田さんを紹介された。
 広田さんは作品を出品すれば高値で取引される人気の銅板画家で、美形なことで有名だった。レンブラントの絵画から出てきたように彫りが深く、
彼がいるだけで周囲が華やぐ。自慢の夫なのだろう。沙織さんは彼と腕を組み、ぴったりと体を寄せて私の前に連れてきた。
「正臣君、こちら川上千弦ちゃんよ。綺麗な子でしょ。まだ二十七歳ですって。いいわね」
 著名な芸術家の広田さんを「正臣君」と呼べるのは妻の沙織さんだけ。それを知らしめたい。過剰なボディタッチやオーバーリアクションで話す夫婦の仲良しエピソードは、彼の前に立つ全ての女への警告と牽制。この人は私のものよと釘を刺していた。彼女の生けるフラワーアレンジメントは素敵で、四十代になっても失われない美意識の高さに憧れていたが、その瞬間に消えた。「ただの女」だったんだと幻滅した。
「神様なんていないって顔してるね」
 知人に呼ばれた沙織さんが去ったあと、泡の踊るシャンパングラスを手に広田さんが言った。初対面とは思えない親しげな笑みを浮かべ、壁に凭れながら私を見ていた。遠慮のないまなざしに身の置き所を探した。
「そう、ですか?まあ会ったことないですし、いたら毎日もっと楽しいはずですから」
 彼の立つ方から明らかな熱を感じていた。なぜか目を合わせるのが怖く、パーティー会場を気にしてるふりをして、仏頂面のまま答えた。
「そりゃそうさ。神様は魔法使いじゃないもの。けどいるよ。幸せにしてくれる存在と思ってるからそう感じるんだよ」
「じゃあなんのためにいるんですか?」
「全部神様のせいにするためにいるんだよ」
 彼はシャンパンを飲み干した。軽く開いた口唇にくいと流し込む綺麗な飲み方だった。よく分からないけどおかしくて、ふふっ…、と吹き出した。
「なんだよ、笑うじゃん」
 広田さんはいたずらそうに歯を覗かせた。
「ところで、なんて呼べばいい?ちづるだから、つるでいいか。かくれんぼできる森があるから今度連れていってあげるよ」
 そっと彼の方に目線を上げた。女の子を見つめなれた魅惑的な瞳がすぐ近くにあった。冗談とも取れる甘い言葉。この人なに言ってんの。思いながらもケタケタ笑い飛ばせなかった。年齢や性格のせいではない。直後には決めていたからだ。NOなど見当たらない。今すぐでもいい。ここから彼と脱走したいと思った。
「どっちが先に鬼をやります?」
 部屋の奥でこちらをちらちら気にしてる沙織さんを目の端に捉えながら尋ねた。その時に双子の娘が彼を呼びに来た。
「湖が近くにあるから水着持っておいで」
 広田さんは空のグラスをすいと渡してくると、双子に引っ張られて歩いて行った。斜め後ろから見える清潔そうに笑う口元を目で追いかけた。
 私が今日ここに呼ばれのはこの人に会うためだ。擦り付けられた花粉は、
もう受粉して実を膨らませていた。彼から受け取った空のグラスを斜めに傾け、底に残っていた光色の液体を喉に流し込んだ。
 森の奥の湖のほとりに、アトリエを兼ねた彼のコテージがあった。時々浅瀬で泳いだが、かくれんぼは一度もしなかった。広田さんと会うことでもう始まってる。ひめやかに、ひそやかに、誰にも見つからぬよう落ち合った。
 
 到着した漆器の工房の戸を引いて入ると「よお、来たな」と藍色の作務衣姿の男性が出迎えた。広田さんの友人の蒔絵師だった。
「いい店だな。お前にしては洒落てるよ」
 長い時間運転していたのに広田さんは疲れた顔もせずに軽口を飛ばした。
「まあな。ようやく第一歩よ。お前ほど名が知れた作家になるにはまだまだ先だけどな」
 いつも笑ってる広田さんとは対照的な、職人らしいきりりとした顔付きの男性だった。目が合ったので互いに会釈したが、広田さんは私を紹介することなく話し続けていて、彼も聞きもせず店と工房を案内した。棚に並ぶ作品は素人目にも素晴らしく、静謐で優美な蒔絵が描かれた器や茶箱を見入った。
「いい出来だな。なあ彼女にも体験やらせてやってよ。おれちょっと電話してくるから」
 運転中から何度も携帯が鳴っていた。沙織さんかもしれないし仕事の相手かもしれない。私は聞かなかった。スマホを手に取る度に横切る薬指の指輪が私を黙らせる。今も少し早足で外に出て行く広田さんをじっと見送った。
 彼の友人にレクチャーを受けながら蒔絵をやることになった。黒く塗られた十五センチ幅の皿に沈金刃を使って下絵を描き、漆で彫った線に沿って金粉を埋めて定着させてゆく。いくつかの見本の絵から、私は猫を選んだ。広田さんが来るからかお店は休みになっていて、しいんとした静寂の中で黙々と作業した。手先を使うことが好きなので面白かったが、二十分以上過ぎても広田さんは戻って来なかった。
「沙織さん、広田と離れないよ。あの人は広田を独占するためならなんでもやる。前の旦那ともかなり強引に別れたらしいからね」
 斜め前からぽつりと声がした。出来たばかりの工房は新しい井草の匂いが立ち込めていて、くしゃみが出そうになるのをこらえていた時だった。
「ベルリンで出会ったんだよ。広田も大学卒業してからドイツに渡って、向こうで活動してたんだ。日本人アーティストの博覧会に二人共出品してたのがきっかけで知り合って、当時はまだ駆け出しで金がなかった広田の世話を沙織さんが結構見てやってたんだ」
 彼は尋ねてもない話を始めた。沙織さんの元夫は酒癖が悪く、飲むと暴れる人だった。なので彼が酒を飲んだ日は広田さんが子供達を預かっていた。
だから娘らは彼に懐いてて、本当の父親と信じている。彼自身も幼少期に父親を亡くしてるので、彼女らを突き放せないのだと…。
 この話が私に関係あるのか分からなかった。もう少しで完成しそうなのに、金粉が掬えなくなっていた。顔を伏せたまま筆を置いた。
「沙織さんが一方的に広田に惚れてて、先に帰国してたあいつを追いかけて日本に戻って来たんだ。でも旦那は別れたくないって言って、離婚までかなり時間掛かってさ、成立したのは今年の初めだよ。四年以上争ってた。ただ
国際結婚だとハーグ条約とかの取り決めがあって、子供の安全だとか、環境に馴染んでいるかとかが親権の引き渡しの条件になる。娘が幸せじゃないと相手に取られるから、広田がずっと父親代わりをしてたんだ。子供達も広田が好きだし、世話になった沙織さんに頼まれて、断れなかったんだろうな。
あいつ変なとこだけ義理堅いんだ。自分より弱い人間見捨てられないみたいなさ…。あの指輪もダミーさ。そうやって自分を抑えてた。子供達のために夫婦のふりをしてるだけで、あいつ、独身なんだよ」
 窓の外の枝が揺れ、さわさわと上下した。世話しなく鳴く鳥のさえずりが部屋を埋めつくす。私は作りかけの皿を見ていた。猫が気持ちよさそうに丸くなっていた。押し寄せるもので体が痛い。なんとかもう少し。仕上げてしまいたいのに、一度膝に置いた手が上げられなくなっていた。
「でも、そんなの健全じゃない。一度はこのまま沙織さんと結婚しようと思ったらしいけど、おれが止めたんだ。だってそうだろ。それは優しさじゃない。騙しだってさ。それであいつ、この人と決めた人ができたら、今の関係を精算させるよって言ったんだ。沙織さんが応じるかは分からないけど、このままじゃ子供達が可哀想だからってさ。父親じゃなくて、父親を演じてるといつかは知ることになる。どうしてパパとママはいつまでも違う名字なのとか、年齢的にもごまかせなくなる。可愛いからこそ辛いって悩んでたよ。でもおれはもう充分やったと思う。あのちゃらんぽらんだった男が他人の子をちゃんと育ててさ。ほんとに頑張ったと思う。だからもう自由にしてやりたい。自分の人生を生きさせてやりたい。今日あいつがここに君を連れてきて、おれに会わせたっていうのは、きっとそういう決意を…」
 私は立ち上がった。和室を降り、靴も履ききらぬまま出口に向かうと、電話を手に広田さんが入ってきた。睨み付けて出て行こうとする私の腕を掴み「え、なに、ちょっと」と引っ張った。 
 殴ってやる。なのに手も言葉も出ずに彼の胸に額を押し付けていた。出会ってから広田さんの前で泣いたのは初めてだった。薄い胸なのに私がすっぽり収まる。押し退けようとしてもびくともせず抱き留めるのだ。
「それちょうだい。この子の作ったやつだろ」
 テーブルに私が作業していた皿が残されていた。
「まだ乾燥させなきゃならないから、できたら送る。彼女筋いいよ」
「ふうん、そう。ところでなんか意地悪したの?」
 広田さんは私の髪を撫でた。友人は腕を組み「してないよ。ほんとのことは言ったけどな。彼女に聞けよ」と、広田さんの腰の辺りをポンと叩いた。
目線をそちらに置いたまま、広田さんはわざとしかめ顔を作った。
「じゃあまた来るよ。東尋坊ってここから近い?」
 広田さんに強く手首を掴まれたまま工房を出た。私は駄々っ子のようにもがき、ほとんど引き摺られながら助手席に押し込められた。そして運転席に回った広田さんは、エンジンを掛けるとすぐに出発させた。
「もう帰る。そんなとこ行かない。降ろしてよ!」
 加速する車の中で口唇を噛みそっぽを向いた。
「期待させたくないから言わなかったんだよ。あいつ、余計なことをベラベラと…」
 相変わらず広田さんに悪びれる様子はない。ムカついて肩や腕を叩いて、
足を蹴った。岬沿いを走る車は大きく蛇行し、展望台のある広場の脇に斜めに停車した。
 「危ないだろ!」
 叱る声を無視して外に飛び出したが、追いかけてきた広田さんにすぐに戻され、ドアが開いたままの助手席のシートに倒れると同時に口唇が重なった。抵抗したのは3秒だけ。気が付けば彼の首に腕を巻き付けていた。
 憎らしいのに愛おしい。頭にくるのに大好き。彼しかいないのだ。
 開いたドアの向こうにぽっかりとした水色の空。旋回する二羽の鳥の影。かすめる潮の香り。なにもかもが静かだった。
「あのアトリエさ、燃えたって。原因不明らしい。警察から電話きたよ」
 私を見下ろす広田さんが言った。驚いたが追及しなかった。
「帰る所なくなったから、もう少し遠出するか」
 体を起こして広田さんは外に出た。私もシートを降りた。風に吹かれてる横顔。でこぼこ模様の崖のシルエットが遥かにうっすらと望めた。
「私飛び込みませんよ。まだ若いんだから」
「おれだってやだよ。こんなにモテるのに」
 ふふ…と同時に笑い、私たちは肩を寄せ合った。光が反射する海は三角の波がさざめている。どちらからともなく手を握って見つめた。いつも外してくれない薬指の指輪を好きになる日が来るとは思わなかった。
 ここが到着地でも、別の場所でもかまわない。彼と一緒ならどこへでも行く。もう誰も止めないで。だって、私たちが愚かなのも、つないだ手を離したくないのも、全部神様のせいだから。


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