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(短編小説)昼下がりの男たち 

 
 6月の土曜日の昼前のことだった。
 妻が突然「お腹が痛い」と訴え、ダイニングテーブルに掴まりながらしゃがみこみ、唸り声を漏らすと、しまいに蹲ってしまった。救急車は近所に迷惑掛けるから嫌だと言うので、僕の車で一番近い総合病院に連れていった。
 痛みが強いので救急で診てもらった。血液検査のあとにCTも撮ったりと、検査結果が分かるまで3時間以上掛かった。痛みの原因は胆管に石が詰まっていた胆嚢炎だったのだが、全ての内臓の数値が悪かった。
 肝臓も膵臓も腎臓も基準範囲内を大きく越え、おまけに胃炎で大腸にポリープもできていた。検査をした医師は談話室のパソコンで妻の体内のエコー写真を見せながら病状を伝えると、こうつけ加えた。
 
「奥様はずいぶん我慢強い方ですね」
 
 はあ、と苦笑いするしかなかった。医師のその言葉はもちろん妻への賛辞ではなく、こんなになるまで気付かなかった夫である僕への皮肉である。

「あなたはこんなになるまで妻を放っておいたんですね」

 夫失格の烙印を押す文言だった。

 妻は大の病院嫌いで、40代から無料で受けられる市の定期検診も十年以上受けてこなかった。第一子を妊娠中に切迫早産と診断され、強制的に入院にすることになったのだが、四人部屋の二人がやかましいギャルで、深夜になってもべちゃくちゃ喋っていて眠れず、ストレスで胃腸炎になって別の病院に運ばれる羽目になり、結局一月半も退院できなかった苦い思い出があるからだ。咳が出たり喉が痛いなど、ちょっとした症状なら近くのクリニックに行くのだが、痛む場所が胃腸や下腹部など、検査によってはもしかしたら入院と判断される可能性のある場合は、どんなに痛くても、治まるまでひたすら耐えしのぐのだ。実際に我慢強い方なのだろう。けれど今僕がそれを口にすれば、妻の病気は全て妻のせいと言ってるも同然だった。
 
 僕は妻に会うのが怖かった。彼女はもう、先ほど僕が受けた説明と同じ内容のことを医師から知らされているのか。そして言われただろうか。

「あなたはずいぶん我慢強い人ですね」

 それを聞いてどう思っただろう。鈍感で気の回らない夫がいれば当然よと自分に同情しただろうか。それとも検査を怠ってきた自身を反省してるだろうか。どちらにせよ、こんなになるまで、と。

 僕はこれから少しでも献身的に看病することで埋め合わせしようとするだろう。夫にとって常に他人事でいたい妻の不調を受け流してきた。彼女が「お腹が痛い」と訴えてきた時、一度でも真剣に「どの辺が?」「どんな風に痛いの?」と耳を傾けたり、ネットで症状を調べたりしただろうか。
 いや、僕は毎度のこととして「薬飲んだの?」の一言で、彼女自身が自力でなんとかするものとしてきた。いつなんどきスマホを手にしていても、当たり前にスルーして、週末の競馬に出走する馬の情報ばかりを見ていた。
 
 今になって検査結果について検索を掛けて、それを彼女に伝えた所でどうなるというんだ?僕の付け焼き刃の情報よりも、より詳しい治療法について医師から直接聞けるというのに。
 とはいえあまり酒も飲まないのに肝臓も膵臓も悪いのは何が原因なんだろう。調べると鎮痛剤を長期服用すると肝臓が悪くなるらしい。石ができやすくなるのも同じ理由が原因だった。
 妻は慢性的な頭痛持ちで、特に花粉症の季節になると、頭痛で起き上がれなくなるほどだった。その時期はおそらく二ヶ月間、一日三回鎮痛剤を飲んでいたと思われる。薬の飲み過ぎはよくないよと、民間療法に切り替えるための代替品を考えたり提案することもなく、彼女が不調でも「少し休んだら」と声は掛けても「家事を代わりにやるよ」とは言わなかったし、そんな優しい言葉、思い付きもしなかった。
 毎年会社で受ける健康診断で、僕は今年全ての項目でA判定だった。よかったと安心していたが、それは妻が僕の健康に気遣ってくれていたからだ。一度だけ肝臓の数値が悪かった時「なんでなの?」と彼女はすぐに調べて
改善に効果のあるメニューに切り替え、駅前の消化器科にも行かせた。結果は特に問題なしで、以来数値も基準内に収まっている。
 多分夫婦間の健康というのは、そのささやかな時間によって守られるものなのだ。僕は今日までそれを怠ってきた。そうした親身のなさを妻自身が感じ取っていて「心配されてないなら別にいい」と自分を大事にすることを放棄し、検診から足を遠のかせる原因になったのかもしれない。

 僕はとりあえず言われるままに入院の手続きをし、用意する持ち物のリストをもらってから、病院内を簡単に案内された。もう妻は検査を終わらせて
病室に戻ってきているという。この日は土曜日で、コロナの感染リスクを抑えるため、週末は面会禁止になっていて、見舞い客はほぼいなかった。
 リノリウムの床を歩きながら、妻が眠っててくれたらいいと思った。なんという言葉を掛ければいいのか分からない。しかし教えられた病室に行くと、彼女は点滴をしてベッドに凭れていた。しっかり目を開けて窓の外を見ていた。

「どう?」「大丈夫?」「どこか痛む所はある?」
 
 どれもしっくりこない。どれも今さらと思うと余計言い出せなかった。
「いやーお医者さんに怒られちゃったよ」とおどけるのも、おこがましい気がした。
 病室に入ってゆくと、妻はちらと視線を寄越した。すでに入院患者用のピンクのストライプのパジャマに着替えていた。袂から少しだけ覗ける胸元の薄さに、初めて気がついた気がした。
 僕はゆっくりベッドの傍らに回った。どんな顔をしていたのか自分でも分からない。こうだろうと想像しているよりも生真面目ぶっていたかもしれないし、案外ニヤついていたかもしれない。ともかく僕は口をつぐんだまま、窓を背に妻を見下ろすように立った。
 すると妻の方から「しばらく入院だって」と言った。少し怒っているような口調だった。どこかしらふて腐れてるように、口元も突き出ていた。

「うん。分かった」

 さすがにもっと言うことがあるだろうと思うが、浮かぶ言葉のどれも採用したくなかった。こんな時だけ優しい夫になるには虫がよすぎるからだ。
「ルルのご飯と注射ちゃんとやってよ。毎日様子きちんと見てあげてよね」
 妻はペットの高齢猫のことを真っ先に心配した。今年で十七歳になるルルは糖尿病で、腎臓も膵臓も肝臓も悪く、現在も投薬を続けていた。ルルのことは毎月必ず検診に連れて行き、朝晩二回インスリンを打ち、嫌がって逃げようとするのを二人がかりで押さえ付けて薬を飲ませている。なので今は数値は落ちつき、どれも正常範囲内だ。
 妻は常にルルを優先し、六年前に糖尿病と診断されてから一度も旅行に行っていない。ゴールデンウィークや夏休みに、僕の実家の長野に行くのは息子と娘と三人だけ。妻はいつも留守番。ルルは神経質で、ペットホテルでは
ストレスがかかり、持病が悪化してしまうからだ。
 優先する。自分より誰かを。僕はそんなことしたことがあっただろうか。
なかった結果が今、目の前に横たわっていた。労らなかった。労ろうともしてこなかった。今だって頭の片隅では、しばらくの間のし掛かる、家事や猫の面倒の負担を悩ましく感じているのだ。

 その時にふと、ひと月前に会社を退社した女性社員の鈴木ひよりのことを思い出した。彼女は辞表を出す前日、僕にこう言った。

「どうして私なんですか」
 
 取引先が過って紛失した資料をもう一度コピーするため、バインダーから抜いた用紙を元に戻す作業を頼んだ時だ。確かに事務員の彼女の仕事ではなかったが、僕だけではなく、他の社員も面倒くさい雑務を彼女に任せがちだった。それは彼女が頼みやすいタイプだったからだ。
 決して美人ではなく、地味でモテそうもない。これまでも皆が嫌がる仕事を押し付けられ、それを黙々とこなしてきただろうと思わせる空気を醸し出していた。会社にはもう一人女性事務員がいるのだが、彼女はちょっと派手で、男性社員と気軽に飲みに行ったりもする方だった。話しかけやすいのはむしろ彼女なのに、近しさからの遠慮とでもいうのか、頼むのが悪い気がして無意識のうちに避けていた。
 しかしながら当然男としての本能が働いていたからだろう。女性が二人いれば自然と比べて甲乙付ける。彼女には好かれていたいが、鈴木ひよりのことは異性として見てない。これは男女ともに同じだとは思うが、好みの検閲は無意識で行っているからこそ絶対になりがちで、差別でなく区別をする。そして一旦区分けしたら、相手の知らぬところで、もうそのシステムが自動的に作動する。異性に限ったことでもない。いじめとかもこうして起こる。
 
 「どうして私なんですか」
 
 僕はその問いに、彼女を傷つけない答えを持ち合わせていない。
「君はこういう仕事が得意だから」
「君に頼めば早く終わるから」
 バインダーに書類を戻すのがうまい、は決して誉め言葉ではない。
誰でもできる。子供でも。そして誰もが面倒くさい。
 けれども僕は僕に向けられた鈴木ひよりの抗議をそのときは理解できなかった。みんなの前で不美人な事務員に文句を言われたことの恥ずかしさの方が勝って、早く収めようとばかり考えていたからだ。そして鈴木ひよりは翌日に辞表を提出した。正直こんなことぐらいでと思っていた。
 
 どうして私。
 実際そこにある答えはひとつだけだ。それをやるのに適任だから。
バインダーに書類を戻したって達成感はない。褒められもしない。だから進んでやりたくないし、適当な誰かに任せればいいと放棄する。相手より自分の負担の軽減を優先してしまうのだ。

 家事はまさにそういうことの繰り返しだ。妻は「どうして私なんですか」とは言わない。言わないから押し付ける。褒められない仕事を。彼女はよく日曜日に言ったものだ。

「男は昼に家にいても役に立たないわね」

 僕はニヤニヤしながらいなすだけ。座って競馬番組を見てるだけの夫への嫌味だとは分かっていたが、言われたところでどうってこともなかった。洗濯物を干すのも、玄関先に溜まった落ち葉を掃くのも、彼女の日常の一環と捉えていたからだ。彼女の言葉の裏にも「どうして私なんですか」が潜んでいたなぞ考察もせず、微塵も感じ取らなかった。今だって僕は本当になんの役にも立っていない。ここにいるだけ。ただ。

「なんかね、全部の数値が悪いって言われちゃった。正常な臓器がひとつもないって。よく今まで普通に生活してましたねって」
 その口振りに僕への叱責はなかった。むしろこれまで検診を避けてきた自分に向けて言っていた。僕は知らなかったふりをした方がいいか一瞬迷ったが「そうらしいね」と答えた。
「けどすごいのよ。どれも手術するほどじゃないって。しばらく入院はするけど、点滴と投薬を続けてこれ以上悪化しないようにすれば大丈夫だって。
私ってすごくない?」
 妻は得意そうに笑って見せた。「すごいね」と僕も笑い返した。そうだ治る。治るのだ。彼女は体の中身も我慢強い。
「夕美子に連絡するからスマホ貸してくれない?入院中に持ってきてほしいもの頼みたいから」
 妻は言った。「夕美子」は妻の妹だ。同じ市内に住んでいて仲がいい。僕らには息子と娘がいるが、どちらももう独立して遠い所に暮らしているので、妹の方が頼みやすいのだろう。だが僕もいるぞ? 
「言ってよ。持ってくるから。リストに書いてあるもの揃えればいいんでしょ?」
「そうだけど、あなたに下着とかいじられたくないのよ。夕美子なら新しいもの買ってきてくれるから。それに本とか頼んでも分からないでしょう?」
「本ぐらい分かるよ。どれ?」
「読んでないものが欲しいの。あなた普段本なんか全然読まないから、探せないでしょ」
「あいうえお順に並んでるから分かるよ。誰のやつ?」
 僕は少しむきになっていた。なんでもいいからやれることを求めていた。バインダーに書類を戻すことでもいいから自らやりたがっていた。無償でいい。そうでなければ今はやりがいを感じないからだ。
「じゃあ、分かったらでいいけど、田辺聖子の短編集買ってきてよ。なんでもいいわ。あれば読むから」
「でももう読んだものあるんだろ?それ以外にするよ。読んだやつのタイトル教えてよ」
「よく覚えてないのよ。でもいいの。あんまり考えないで読めるものがいいから。短編集って書いてあればそれでいいから」
 僕はスマホに「たなべせいこ」とメモした。初めて聞く名前だった。僕と妻は夫婦だから共有してるものはたくさんある。自宅や家族や資産やスケジュールなど。でも共通してるものはほとんどない。趣味趣向全く違う。
 競馬や格闘技やゲームなど「勝つ」や「強い」が好きの基準の僕に対し、妻は本や映画や音楽など、一人の世界で感動を味わうものが好きだった。どちらもそれを非難しない代わりに関心もない。僕は今日まで彼女が「田辺聖子」という作家が好きなことも知らなかったし、存在も知らなかった。入院しなけば多分ずっとだったろう。子供たちがいなくなった今では、彼女に空白の時間が増えて、僕の知らないものだらけで形成されているのかもしれなかった。現に今も本当に望んでるものも分からない。

「別にもう帰っていいわよ。手続きも終わったんでしょう」
 妻は妹に一通りの用件を連絡をすると、僕に言った。確かにいてもなにもすることがない。もちろん早くよくなって欲しいと思うが、治るのならばそれほどの心配は不必要なんだと思い始めている自分がいるのだった。退院したあとにも投薬を続けるのなら「薬飲んだの?」と以前と変わらずに声を掛けることが最大の優しさであるかのように、しつこいぐらい聞くのだろう。

 夏至の近い6月の午後は長い。日暮れまでは充分ある。僕は病院を出てから、車に乗ると、まず最初に今日のレースの結果を確認した。買おうと思っていた馬券がひとつ的中していて、2400円損したと溜め息を溢した。まあしょうがないとスマホを脇に置いてエンジンを掛けた。
 とりあえずこの辺で一番大きい書店に今から行ってみよう。そして今夜はもう一人だから、新発売のあのビールを試しに買ってみて、安くなった刺身と一緒に、のんびり飲んで過ごそうと思った。


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