見出し画像

いいかげんで偽りのない僕のすべて ⑦


 次の朝、昨夜のことについてどちらも触れなかった。向かい合って朝食を取るときも無言のままだった。僕は顔すらまともに見られなかった。
 学校で夏期講習があるので七時半には支度を整えた。制服に着替えて玄関で靴を履いていると初音ちゃんが見送りに出てきた。
「いってらっしゃい」
 首を傾げて手を振った。声の掛け方は変わらなかった。
「行ってきます」
 僕は目配せも送らずに軽く振り向くに止めて出ていった。初音ちゃんの心を知るのが怖かった。どうしてあんなことをしてしまったかの反省より、用意されたシチュエーションに乗っかってしまった感が否めなかった。取り込まれてしまった弱さと、初音ちゃんの僕に対する初恋らしき気持ちを利用した自分のずるさ。その状況すらも都合よく解釈した上での実行だった。
 僕らはいとこで、二年に一度ぐらいしか会わないが、友人より本音で付き合えて、家族よりしがらみがない。細いけどナイロンみたいに、そうそう切れはしないだろうと根拠もなく自信がある。だからといってやっていいにはならないが、昨夜僕は理性を失ってはおらず、むしろ極めて冷静に判断してことに及んでいた。初音ちゃんの本心以外は全部見えていた。
 
 学校に行くと、林田たちにしつこく初音ちゃんの正体を聞かれた。僕は面倒くさくなって、いとこだよと正直に言った。夏休みだから遊びに来てんだと話しても「本当かよ」と疑うので、僕は携帯を出して「じゃあお袋に確かめてみろよ」とそいつの方に放った。分かったよ、むきになんなよと、ようやくその質問から撤退していったが、本当は僕自身にいとこだと言いたかったからだった。後ろめたさがむきにならせたのだ。
 8時40分になると先生が教室にやってきて、暑くても窓を閉めるようにと
言った。まだ斜面に手付かずのまま置かれている廃棄物から薬品みたいなツーンとする匂いが漂ってくるからだ。具合が悪くなったらすぐ手を上げるようにと注意を払った。
 後ろから二番目の窓際。僕の席からその黒い塊がよく見える。緑色の山の斜面に、解体されたロボットのような鉄屑の残骸。半導体やレアメタルなどの価値ある部品だけは取り除いているのか、無理やり鉄板を切断したのが、いびつな破片の形で分かる。だからといってなぜここに捨てるのか。悪意なのか、夜で景色の見えなかった業者の運転手がたまたまここを選んだのかは知れないが、ある日いきなり被害者になるんだなと思った。
 有害な化学物質のせいか、廃棄物の周りの草木だけが変色している。秋にはまだ早い季節なのに、他の木々に比べて明らかに色褪せて、茶色がかった黄緑に染まってへたっていた。廃棄物が山を枯れさせているからだ。
 大人たちは文句は言うものの結局何もしない。僕らが勉強や運動をする場所にこんな危険なものがあっても「誰か」が片付けるものだと責任を押し付け合い、崩落か病人が続出する事態が起きるまで放っておくのだ。なぜ僕らが悪臭を我慢し、時にはマスクをして通わなければならないのか納得できなかった。このせいで運動部の活動は制限され、最後の年なのに、三年生はろくに練習会ができないまま大会に望み、ほとんどの部活が地方予選で敗退した。禁止はするけどフォローはしない。最後は自己責任に任せる。実際、他の学校と交流のある部活はグラウンドを借りて合同練習をしていたが、そうでない部活は個人で走ったり、自宅で筋トレをするのが精一杯で、高跳びの代替をできる練習場所なぞどこにもなかった。
 僕はそれを見ながら、初音ちゃんの妊娠と同じだなと思った。男は諸悪の根源を放って逃げて行き、彼女のお腹には始末に困るものだけが残される。不安という毒に侵されてゆき、一体誰がこれを片付けてくれるのかと右往左往した挙げ句、全く無関係の僕に縋りつくしかなかった。「関係ある人」が何もしてくれないからだ。洗脳タウンの住人が故、母親すらも彼女に寄り添わなかった。だからきっとこういう問題も、見越した他人がいきなり名乗りを上げて解決に至るのだろうと期待するしかないんだと思った。

 午前中で講習は終わり、帰ろうとした時だった。
「健太郎」
 担任の先生が教壇で手招きした。僕は友人に先に行っててもらい、教室に残った。先生は鶴の絵が描いてある扇子で仰ぎながらバインダーを広げた。
「健太郎、お前だけだぞ。進路希望出してないの。もういいかげん決めないとだろ」
 ああはい、すいません。僕は頭を下げた。
「お前は成績もいいし、内申も問題ない。この辺の大学ならどこでも入れるぞ。それとも東京辺りに行きたいとこでもあるのか?」
「いや…そういうわけでもないんですけど」
 僕は捻った首に手を当てた。
「まだ将来の展望が見えてなくて、何選んだらいいか分からなくて…」
「けど、お前なら理数も強いし、特に英語なんか抜群だろ。夏休み前の県内模試なんか一万三千人中、二十六位だぞ。これならどこだって行けるのに、何をそんな迷ってんだ?」
「何を迷ってるのか分からないんですよ。どこ行っても一緒かなって」
「ご両親はなんて言ってる?この前の面談では東大か京大かなんて話していたけど」
「そんなの無理ですよ。母親が勝手に言ってるだけで、こんなとこで成績よくたって所詮は田舎だし、そんなビックネームの大学通用しませんよ」
 すると先生は扇子をぱたんとたたみ、僕をじっと見て息を吐いた。
「健太郎よう、お前は頭はいいけど、いいばっかりに現実的過ぎて悲観するんだな。ここは確かに田舎だけど、二十六位はたいしたもんだぞ。お前がそんなこと言ったら、後ろの一万二千九百七十人はどうなる?ただの虫けらか?お前みたいな頭脳を羨んでる奴はたくさんいるし、お前がその気になれば東大だって決して無理じゃない。大事なのはお前が諦めないことだ。そうだろ?提出は夏休み明けまで待つから、もう一度ご両親とよく話し合って、どうしたいのか、どこに行きたいのか、じっくり考えるんだな。田舎が嫌なら出る手段はいくらでもあるし、お前が田舎を都会に変えてくれたっていい。これからなんだってできる。無数のドアの前に立ってるんだ。何を選んだって人生選択の連続だ。けどどこも開けないでじっとしてるよりいいだろう。だったら一度は自分を信じて前進してみることだ。そうすれば今に何か見える。おれだってお前の将来、紙一枚で決定するなんて思ってないんだからな」
 先生は扇子で僕の肩をトントン叩いた。黙って頷き、教壇を降りかけた時
「なあ、そういえば」と僕を呼び止めた。
「星野はどうしてる?元気にしてるか?」
 陸上部の顧問だった先生は僕と星野先輩が付き合っていることを知っていた。先生も彼女の事故後に何度も病院を訪れ、しょっちゅう病室で会っていたからだ。けれども先輩は学校を辞めてしまい、誰の前にも姿を現さなくなった。なので今の彼女を知る僕に先生は時々様子を尋ねるのだ。元気ですよ、と答えた。そう言うしかないからだ。
「そっか。まだ歩く練習はしてないのか?」
「してないですね。ずっと車椅子乗ってます。家も全部改築して、車椅子で移動できるようになってますから。義足いらないみたいで」
 先生はうーむと口元をしかめ、目を瞑って腕を組んだ。
「まあ、なんとも言えんな。本人の事情もあるんだろうし、女の子だからな。ただ残念だ。いい選手だっただけに、本当に残念でならないよ」
 
 僕は友人とラーメンを食べてから本屋に寄り、参考書二冊と文庫本三冊を買って帰って来ると、初音ちゃんは家にいなかった。どこに出掛けたという
メモもなかった。
 着替えてから居間の窓を全開にして、座椅子を傾けて買ってきた文庫本を開いた。天気はよくて静かだった。トンビの鳴き声がたまに甲高く響いた。文庫本を読み進めていたが、話が頭に入って来なかった。同じ行を繰り返しリピートしたり、出てくる登場人物の名前が全然覚えられない。集中できない理由は分かりきっていた。
 立ち上がって携帯を取り、初音ちゃんに電話を掛けた。もしや、ひとりで手術を受けに行ったのかと焦った。それとも夕べの僕に傷付いて帰ってしまったのかと心配になり、電話を耳に当てながら初音ちゃんが使っていた部屋に行ってみた。やがて電話は留守番に切り替わった。部屋には来た時に下げていたバックが置いてあったが、僕の部屋にもおらず、どこに行ったのかも分からない。急いで縁側の窓を閉めてから、財布と携帯を持って出掛けた。

 昨日見に行ったクリニックに向かった。昨日の今日なのでさすがに場所は覚えていた。二つは木曜日が休診日なので、やってるとしたら最後の海の近くの病院だけだった。単に友達にでも会いに行ってるのかもしれないが、初音ちゃんみたいに根が真面目な子は、問題を解決する前に遊べる性格ではないと思った。
 ほとんど確信を持って電車に乗った。今日の方がもっと暑くて、自動販売機で二度もドリンクを買っては、バスの中ですぐに飲み干した。
 覚えていた景色の停留所で降りた。医院に続くカーブの道を急いだ。開けた道路の左側に水色の海がきらきら光っていた。ああ、いいとこだな。ぼんやり眺めながら角を曲がった時、白い建物が見えてきた。看板の輪郭をはっきり目で捉えた直後、塀の間から初音ちゃんが出てきた。黒いトップスに、白いロングスカートという格好で、肩に下げたバックに何かしまいながら歩いてきた。
 僕はゆっくり彼女に近付いた。人影に気付いた初音ちゃんは僕を見つけると「あっ」の形に口が動いて固まった。
「どうしてひとりで来たんだよ」
 自分でも思いがけず声が震えていた。波立つ感情が胸でうねっていた。怒ってはいない。追い詰めてしまったのかとどこかが怯えていた。初音ちゃんは信頼できるか賭けたのかもしれない。でも僕は欲望に負けた。その先のことを考えなかった。でも謝れば僕らの仲は二度と元には戻らない。初音ちゃんが「知らない」を突き通そうとするのなら、僕もそうするしかないのだ。過ちとかでごまかしたくなかった。  
 初音ちゃんはバックのストラップを掴んだまま俯いてじっとしていた。
「ーまさか、もう、手術しちゃったの?」
 黒い髪に問うた。約束が違う。高鳴る鼓動に震える思いを必死に止めた。初音ちゃんはつむじを見せたままかむりを振り「ー早く、忘れたかったから…」と肩を縮めた。
「あの人、あたしのこと好きだって言ってたのに、他にも付き合ってる子がいたの。みんなに同じこと言って、みんなに同じことして、優しいのは最初だけで、ほんとひどい人なの。困るって言ってるのに、直に触れ合いたいとか、子供ができたら結婚すりゃいいよとか言って、避妊してくれなかった。
それで実際こうなった時に電話したら「誰だか分からない」って一方的に切っちゃって、着信拒否されて、家に行ったら弁護士とかいう人が出できて、「ストーカーで訴える」とか、「親に話すぞ」って追い払われて、もう全然会ってくれなくて…。もちろん自分にも責任あるんだけど、なんであんな奴をいっときでも好きでも思っちゃったのかって思うと、すっごい悔しくて…。
それでひとりでなんとかしなきゃって、ネットで色々調べたり、中絶するとしたら病院行かなきゃならないし、そしたらお金も掛かるし、保護者のサインと同意書が必要だって書いてあったから、流産しないかなって。高いとこから飛んでみたり、走ったり、わざと無茶なことやってみたんだけどダメで…。もう自殺しようと思って睡眠薬とか買っておいたのをお母さんに見つかって、それで全部話したんだけど、誰かに知られたら街を歩けないとか、
学校退学になったらどうするんだとか、そんなことばっか心配して、あたしのことは全然心配してくれなかった。それで、ちょうど夏休みに入ったから、手術するなら今しかないってなった時、おばあちゃん家に行けばって言われたの。泊まれるっていうのもあるけど、健太郎君とも仲が良かったし、
頭もいいから、きっと協力してくれるって…。あたしも迷ったけど、他に方法がないからこっちに来てみて、そしたら本当に健太郎君があたしのために色々考えてくれるから、余計申し訳なくって…。こんな同意書に健太郎君の名前書きたくない。書かせたらいけないと思って、適当な理由を作れば手術できるから、それで…」
「それで?」
「土曜日、手術する。同意書、一応もらってきたけど、無理しないで…」
 完全な泣き顔になる前に、僕は初音ちゃんを両腕にくるんだ。今はそれしかしてやれることがないからだ。どうして彼女がひと月前に煙草を吸い始めたのか分かった。胎児に悪影響と知っていて、流産を望んだからだ。いじらしく、バカな子。歌のタイトルじゃないけど、愛しさと切なさが交じり合っていた。まだ形さえない子供を葬ることが、初音ちゃんを救う唯一僕にできることという現実が、とてつもなくやりきれなかった。
 その日の夜も初音ちゃんは部屋に来た。昨日と同様一時半過ぎ。真っ直ぐ寝室のベッドに入り、僕はテキストを閉じた。まるで毎晩同じ時間に始まる無言劇だった。目を閉じたままの初音ちゃんのキャミソールを下ろした。
 一度の魔だったはずの禁断の果実。手を出したら後戻りできない。分かっているのに僕はもぎ取るのを止められなかった。初音ちゃんは目を瞑ったまま、O嬢の物語みたいに、観念しながら犯される儀式に無言で従っていた。
 僕らは血縁者で、彼女は妊娠している。モラルを無視するためには「知らない」というルールを作るしかなかった。これは夢だと信じる戒律の元で初めて交じ合える。もう許されるか許されないかと考えない。これは間違ってると自覚をすることで、僕たちは互いに同罪だと伝え合っていた。

 金曜日は雨が降った。雨が降ると廃棄物から漂ってくる臭いがより強烈になり、二時間目が始まる前に具合が悪くなって下校してしまう生徒もいた。
もちろん僕も臭かった。頭痛もしていたが、とりあえず残った。けれども学校の判断で二時間目で終了になり、結局新学期まで登校禁止になった。
 僕は寄り道せず真っ直ぐ帰宅した。雨雲に覆われた灰色の暗い空。湿った空気のせいで蒸れて暑かった。家に帰ると初音ちゃんは居間で音楽を掛けながら学校の課題をやっていた。
 汗を掻いて雨にも濡れたので、先にシャワーを浴びることにした。熱めのお湯を被っても、頭痛は抜けなかった。タオルを肩に掛けて居間に戻り、畳に横になって両手で顔を覆った。
「どうしたの?」初音ちゃんの声が降ってきた。「具合悪いの?」
「頭が痛い」
 僕は目を閉じながら息を吐いた。「雨のせいだ」
「お薬いる?教えてくれれば持ってくるよ」
「大丈夫。少し横になってれば治るから。学校の横にある廃棄物のせいでみんな体調が悪いんだ。雨だと臭うから」
「誰も片付けてくれないの?」
「今のとこはね。なんだかんだ言うわりに先に進まない」
「大変だね。あたしがもっとお金持ちなら一日で片付けてあげるのに。誰か学校でいないの?自分の子供のためにどーんとやってくれる人」
「いないなあ。いたらとっくにやってるよ。もう何ヵ月もあのままなんだから」
「世の中って案外無責任な人が多いよね。なんでだろ」
「多分愛着がないからだよ。自分の町に醜聞があったって気にしないんだ。例えばこれが初音ちゃんの住む所なら、すぐに住人全員でお金出し合って撤去してるだろ。守りたいものがあるからね。けどここに住んでるような人達は所詮こんなとこって思ってるから、所有者の許可がどうとか、条例がどうのって持ち出して、率先して解決しないんだよ。ゴミを捨てられても仕方ないような町だって思ってるからさ」
 僕はタオルを目の上に被せた。暗い方が頭痛が少し和らぐからだ。
「健太郎君も、この町好きじゃないの?」
 初音ちゃんは僕の脛に足を乗せた。
「別に好きじゃないよ。なんにもないし」
「でも東京の大学に行く気もないんでしょ?」
「東京を好きになれるとも思わないから。だったらどこか海の近くでゆっくりしたいよ。ここより都会で東京より田舎のとこで。シチリアとかマルタ島で翻訳の仕事とかできたらいいな。海沿いのキャフェでカッフィなんか飲みながら、通りを歩く猫の頭撫でたりする優雅な生活したいな」
「あはは。いいね。翻訳かあ。健太郎君頭いいもんね」
「初音ちゃんは将来やりたいこととかないの?」
「あったけど、今は分からない」
「なにがやりたかったの?」
 すると一瞬間が空き「保母さん」と答えて笑った。
「おかしいよね。中絶手術するって人が子供の面倒みたいなんて。矛盾してるよね」
「そんなことないよ。物事の善悪について一度も真剣に考えたことのないボンボンが、六法全書と判例集読んだだけで司法試験受かって裁判官やってたりするんだから。それに比べたら、短い間でも子供を持って、心の痛みだとか、命の重さについてちゃんと考えたことのある初音ちゃんが保母さんになる方がよっぽど正しいよ。人を扱う仕事をするなら、大事なのは知識より経験と優しさだよ。人間なんて矛盾の生き者なんだから気にすることないよ」
 雨音が僕らを閉じ込めていた。夏特有の途切れのない真っ直ぐの雨。庭の木々に落ちて無数の滴に生まれ変わる。ぴちゃんぴちゃんと池の水面を描く波紋。僕は腹の上で手を重ねて、その光景を瞼の奥で想像していた。
「じゃあ今日はあたしが健太郎君の代わりに新聞読んであげるね」
 ちゃぶ台にあった新聞を取ってガサガサと広げると「えーとね、オリンピックの競技会場になる国立競技場の総工費用があ」と、初音ちゃんは僕の肩を枕代わりにして読み出した。だが所々で漢字が読めないと言って飛ばされたりして、途中でなんのニュースか分からなくなり、二人で吹き出した。とりあえず理解したのは、奇妙な髪型の総統がいる国でミサイルが飛んだことと、山から下りてきた熊が撃ち殺されたヘビーなニュースだけだった。
「可哀想だね」初音ちゃんは新聞を広げながら言った。
「撃つことないのに。お腹が空いて出てきちゃっただけなんだから」
「ほんと。人間様が一番じゃないのにな。熊以下の人間もいるのに」
「くまのプーさんはあんなに愛されてるのに不思議だよねえ」
 確かにそうだと思ったが、僕と初音ちゃんだって行ってはいけない所まで来てしまった熊みたいなものだった。いつ撃たれるか分からない。正しい人間に出会ったら、間違いなく断罪されるだろう。
 ずっと初音ちゃんを見張る役だったのに、とうとう僕も迷い込んでしまった。ひとりで探していた時とは別の不安や怖さはあるが、こうなったら二人で歩いてゆくしかない。今はなんとか手を離さず、暗闇をこそこそと抜けて、自分達が安心する場所をひたすら目指すしかないのだった。
 
 僕はその後本当に寝てしまい、3時過ぎに目が覚めると初音ちゃんも隣で寝ていた。紺色のタンクトップにデニムのショートパンツで、僕の腕に頭を乗せてすやすや眠っていた。もう乾いたバスタオルを体に掛けてやると、そっと腕を抜いてから台所に飲み物を取りに行った。
 冷蔵庫の麦茶をグラスに注いで居間に戻った。飲みながら携帯をチェックすると、三十分前ぐらいに星野先輩から着信が来ていた。
『明日の夜、私の家で夕食一緒にどう?板前さんが来てくれるから、おいしいお寿司ごちそうします。迎えに行くから連絡して』
 彼女にとってはなんら他意のないメールだった。これまでも似たような文面を何度か受け取ってきたし、実際ごちそうになったらこともある。けれど僕には落胆しかない内容だった。
 もはや他人を繋ぎ止めておける彼女の魅力は贅沢だけになっていた。こんな田舎町でも、彼女の家だけはラグジュアリーな別次元の空間で、家にシェフが来ることも、高級外車を数台所有していることも、彼女にとっては日常で、もちろんそんなことは罪ではない。だが僕にとって先輩から欲しいメールはこういうものではなかった。

『今度義足を作りに行くから付き合って』

 もしそう言ってくれたなら、僕は嵐でも裸足でも駆けつける。もう一度走れるまで側にいると約束する。ずっとその言葉が届くのを待っていた。この町が好きではないが、彼女が僕を必要としてくれるなら、死ぬまで暮らしていいと思っていた。だから進学先をなかなか決められないでいた。
 本当は少し東京に行きたい気持ちもあったが、もう一度並んで歩けるのなら、福祉大学に進学して義肢装具士になろうかと考えていたからだ。彼女の足を僕が作りたかった。けどその言葉を聞けることは決してないのだと、この瞬間悟った。
 確かに不幸な事故だった。彼女の人生は大きく変わってしまった。これが運命なら僕は彼女を支えるために出会ったのだと確信していた。けれどいつしか岐路で選ぶ道が分かれていった。同じ列車に乗ってると思っていたのに、今は違うレールの上にいる。一度は交差したものの、あとはどんどん離れて行くだけ。目的地が違うから、一緒にいられなくなってしまった。
 あどけなく眠る初音ちゃんの頬に手を添えてから先輩に返信した。
『ごめんなさい。もう行けません。借りた靴とお金は今度郵送します。どうか元気で』
 申し訳なかったが、強くなってほしいと、願うのはそれだけだった


⑧へ続く https://note.com/joyous_panda989/n/n98cd2749481a


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?