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【連載小説:盛岡】すいかメンタルクリニック 7(最終章)

最終章 蝉

 和真は、退院してしばらくは自主トレをしようかとも考えたが、逸る気持ちを抑えきれずに、大学の野球部長を訪ね、入部手続きを取った。連盟から受理されるまでは公式試合には出られないと言われたが、体力の衰えを考えると調度いい準備期間だと和真は思った。
 早速、部員に入部の挨拶をすると、数人の高校のチームメイトや先輩、後輩、その他の部員も歓迎してくれた。
 リハビリに近いような、体力作り中心の別メニューのトレーニングが組まれ、鈍った体にはそれでもかなりきつかったが、必死でこなしていった。髪は短く切り、煙草もきっぱりと止めた。
 グローブは高校時代に使っていた物を節子に送ってもらった。真新しい練習用のユニフォームのアンダーシャツやソックス、ストッキングなどを着ていく一つ一つの過程が懐かしく、心底嬉しかった。
 しばらく休んでいたバイトも再開した。野球のせいで時間的な制約がかなりできてしまったが、デリケートなレコードの扱い方や一万枚を超すレコードやCDの所在を知り、棚から即座に出すことができる技の持ち主はそう簡単に見付かるものではなく、マスターも上手く勤務のシフトを考えてくれた。
 節子や美紅も和真がまた野球を始めたことをとても喜んでいた。節子は隆の墓まで行って報告して来たと言っていた。  
 康平や佳奈も励ましてくれた。特に佳奈はしょっちゅう練習を見に来ていた。
 和真の周辺は、たった一週間ちょっと前までの出来事が嘘のようにあらゆる意味で順調だった。

 退院して一週間経った初めての通院の日の朝、和真の携帯が鳴った。高橋からだった。入院中に電話番号やメールアドレスの交換をしていたが、かかって来たのは初めてだった。「今日外来に来たら必ず病室に寄れ」とでもいう内容だろうと思って電話に出た。
 「もしもし」
 「亮輔が死んだ」
 高橋は沈んだ声でいきなり言った。
 「は?」
 「亮輔が死んだ」
 「…」
 和真の頭は混乱した。
 「亮輔が自殺したんだよ」
 和真は絶句し、高橋もしばらく何も言わなかった。
 「何で?」
 「知らねえ」
 「いつ?」
 「朝見つかった」
 「どこで?」
 「ここで」
 「ここ?」
 「病院の庭の隅っこの木に電気のコードでぶら下がってたと」
 和真は震えていた。
 「だって退院したんじゃ」
 「だからわざわざここまで来て死んだんだよ」
 「…」
 「病院は今日休みだ。警察はさっき引き上げた」
 「で、亮輔は」
 「俺も会ってねえけど、もう家に帰ったよ。帰りたくなかっただろうけど」
 高橋が電話の向こうで泣きだしたのが分かった。そして電話は切れた。
 不通音が聞こえた瞬間、
――人って蝉みたく簡単に死んでしまうんだ。
 和真は思った。そのまま床にあぐらをかき、電話をしていた姿勢から金縛りにでもあっているかのように動けなかった。すると高橋の言葉がもう一度聞こえた。
 〈病院の庭の隅っこの木に電気のコードでぶら下がってたと〉
 だが、頭に浮かんでくるのは、その恐ろしい光景では無く、亮輔の笑顔で、亮輔が笑えば笑うほど、和真には、怒り、悲しみ、怖れ、哀れみ、漠然とはしているが間違いなく負の感情が入り乱れ、世の中全てが忌々しく思え、胸苦しくなり心臓が破裂しそうになった。それにじっと耐えていると、今度は隆の死への思いも重なり、「生きることは死ぬほど辛い」という事実が恐怖として目の内側、耳の内側で何度も何度も響き、ぐるぐると頭を巡り、それが絡まって頭を締め付け、両手で抱えて守っていないと、潰れてしまいそうな窮屈な苦しさを感じた。  
 しかし和真は、頭を抱え、蝋人形のように固まりながらも、それらの耐え難いような痛みや苦しみかき消そうとせず、真正面から受け止め、ただひたすら闘い続けた。

 亮輔の葬儀は、市内の古くからの寺町、北山にある寺で行われ、和真の他に佳奈と康平、高橋も参列した。
 遺影の亮輔は、学生服を着ている以外は優しい笑顔のいつもの亮輔だった。
 読経と時折鳴る鐘の響きは、和真を不思議と落ち着かせた。寺の本堂で正座をしながら和真は考えていた。
 鬱病と自殺は亮輔の例を見るまでもなく背中合わせ。そのくらいのことは和真でも知っている。何故自分は自傷までするあの苦しみの中、自殺を全く考えなかったのだろう。
 答えは簡単だった。節子を悲しませるようなことをすることは想像すらつかなかった、いや、節子だけはない。「肘から出せ」だとか「胸を張って」とピッチングフォームにあれこれ注文をつけながら幼い自分とキャッチボールをしてくれた隆も同じだと感じた。ただそれだけだった。そこが、自分と亮輔の違いだったのだろうか。 
 和真はそれまで、読経を続ける住職の席を挟み、反対側に座っている亮輔の両親をできるだけ見ないようにしていた。入院している時に何度か顔を合わせていて、亮輔の意見に全く耳を貸さずに「学校へ戻らなきゃ」を繰り返してばかりいる両親にその頃から辟易していたからだった。
 しかし何故か見なければいけないと思った。こんな時にまた自分の訳の分からない使命感みたいなやつが出てきやがった、と半ばうんざりしながらも意を決して見た。
 するとそこには、愛する息子を自殺と言う形で失い、うな垂れ、茫然自失とし、見るに耐えないほどに可哀相な父と母がいるだけだった。思わず涙が溢れそうにすらなった。
 辛かったが、凝視し続けた。すると、ぼんやりともう一つの大きな疑問の答えが見えてきた。
 隆が生きていた意味は、子である自分がこれから生き続けることにあるのではないか。そして死の意味は、自分がこれからどう生きるかにあるのではないだろうか、と。
 それが正解なのかは分からない。答えのほんの一部かもしれない。ごく当たり前のことに気付いただけかもしれない。だが、その答えが見えたことによって、心の重石が少なからず軽くなったことを和真は感じていた。
 〈夫婦っていうのはそういうもんだ〉 
 節子は言った。その意味はやはり今でも和真には分からない。ただ、「親子」というものがどういうものなのかということは分かったような気がした。そして同時に隆をこれまでに感じたことが無いほどに愛しいと思った。
 須貝の姿もあった。須貝も憔悴し切った様子だった。和真は須貝の近くに伶を探したが、伶の姿はどこにもなかった。  
 「やっぱり家が辛かったんだな」
 葬儀を終えると、寺の庭で高橋が言った。
 「『すいか』を見ながら死にたかったんだ」
 下を向き、玉砂利を足でじゃらじゃら鳴らしながら高橋が続けて言った。
 〈僕は今がこんなだから、二十歳の自分が想像できません〉
 〈『すいかメンタルクリニック』ここが僕の最高の居場所です〉
 亮輔の過去の言葉が、和真の心に沁み込んだ。
 「病院はどうするんですか?」
 佳奈が高橋に訊いた。
 「外来はとりあえず一週間休むんだと。入院患者はだいぶ出て行った」
 高橋は入院し続けていた。高橋も毎日が辛いだろうと和真は思った。外来の代行病院の連絡は、和真も受けていた。
 「高橋さんはどうするんですか?」
 和真が訊いた。
 「俺はあそこに残る。残らなきゃいけないような気がしてな。あそこで亮輔のことも含めて自分のことをじっくりと考えるさ」
 和真は高橋もまた、自分と同じく現状と闘い、そして前に進もうとしているのだと思った。
 「須貝先生が悪いわけじゃないんだけど、退院させた責任を感じてるだろうし。それに新聞には載らなかったけど、、なんたって敷地内だからイメージがな」
 高橋が言った。
 「藤沢先生は?」
 祈るような気持ちで和真は訊いた。 
 「藤沢先生のショックは須貝先生どころじゃなかっただろ。あんなに可愛がってたんだから。俺はあの前の日から姿を見てねえし、看護師さんに訊いても、今はショックで休んでて、どこにいて何してるかも分からねえって」
 予想はしていたが、和真はやはり愕然とした。もう二度と会えないかもしれない。そんな予感がした。
 空には低い雲がたち込め、今にも雨が降り出しそうだった。秋風は涼しく、微かに寺の木々の葉を揺らしていた。

 和真は、伶のことを想いつつも前に進み続けた。亮輔のことがあっても立ち止まることはなかった。いや、立ち止まることができなかった。
 「生きることは死ぬほど辛い」と実感したあの時から、和真は「生きるしかない」、「前に進むしかない」と自分に言い聞かせ続けた。
 練習は、他の選手と同じ本格的なメニューになり、和真もだいぶ勘を取り戻してきていた。するともともと高校で県ベストフォーのチームの四番だった和真は、弱小チームの中であっと言う間に頭角を現してきた。
 ストイックに野球に打ち込むその和真を佳奈が陰で支えていた。野球やバイトで、都合が付かなかったり、疲れて出られなかったりする講義には、代わりに佳奈が行ってノートを取った。疲れて朝起きられなさそうな時には電話をして起こしてあげた。和真に気を使わせない程度に栄養ドリンクやサプリメントの差し入れもした。お握りや牛乳、パンが詰まったコンビニの袋が和真のアパートのドアノブに下がっていることも度々あった。
 和真の中でも、病室のベッドの上で自分が隆への思いを泣きながら語った時に、そばで一緒に泣いてくれた佳奈の存在が日に日に大きくなってきていた。そして相変わらず自分との距離を保ちながら、精一杯のことをしてくれている佳奈について、野球に打ち込みながらも、真剣に考えようとし始めていた。これも和真にとって「前に進む」うちの一つだった。
 だが、真剣に考えれば考えるほど、前に進もうとすれば進もうとするほど、姿を消した伶への想いがそれを立ち止まらせるのも確かだった。
 さらに和真には、もう一つ真剣に考えなければならないことがあった。それは、康平の佳奈への想いだった。和真はだいぶ前からそれに気付いていた。だがこれまで、自分と佳奈との関係や、自分の伶への想いをあやふやにしてきたことで、親友である康平のその想いを気遣うことすらできずにいた。ただ、佳奈がこれだけ自分に尽くしてくれている今となっては、そして自分が「前に進む」ためにも、伶のことを含めて、タイムリミットが近付いているように感じていた。

 そんな時、和真が野球を再開してから初めての練習試合が組まれた。相手は青森の私立大学で、実力は五分五分の相手だった。
 和真はすぐに動いた。今しかないと思った。
 スクーターで突っ走った。久しぶりに走る、広いリンゴ畑の中を横切る細長い道が懐かしくすら感じた。巨大な「すいか」が見えてきた時はいろいろな思いが交錯し、涙が溢れ、アクセルを緩めなければ運転できなくなった。 

 病院は再開していた。
 外来診療がまだ始まる前に駆け込み、受付で、
 「須貝先生に会いたいんですが」
と言ったが、やはりらちが明かなかった。
 和真は待合室を横切り、院長室と表示された部屋にノックもせずに入った。  
 「先生!」
 須貝はいた。
 「おお、どうした?」
 「藤沢先生の連絡先を教えてください」
と言うなり和真は土下座した。
 「絶対に見てもらいたいものがあるんです。お願いします」
 何度も何度も頭を下げた。
 「そんなに簡単に教えられるものじゃないっていうことも知っているつもりです。でもどうしても今伝えなくちゃならないんです。俺のために。、藤沢先生のためにも。お願いします。どうかお願いします」
 頭を床に付けたまま、祈るような気持ちで和真は須貝の答えを待った。
 少しだけ間を置いて、須貝が口を開いた。
 「分かった。私も藤沢先生をどうにかして立ち直らせたいと心から願っている。もしかしたらそのきっかけになるかもしれない。電話してみなさい。ただ、知らない電話番号だと出ないと思うからこの携帯でかけなさい」
 そう言って、携帯を開き、伶の電話番号を画面に出すと、それを和真に渡して、院長室から出て行った。
 「ありがとうございます」
 和真は須貝の後姿に深々とお辞儀をした。
 和真は深呼吸してから、通話ボタンを押した。
 「もしもし」
 間違いなく伶の声だった。
 「先生ですか?」
 「いえ、和真です。須貝先生の電話を借りてかけています」
 「和真君」
 伶は戸惑っている様子だった。
 「単刀直入に言います。今度の木曜日の一時から滝沢球場で試合があります。絶対に見に来てください。お願いします。絶対に来てください。お願いします。お願いします」
 十秒ほど沈黙が続き、伶の返事は無いまま電話は切れた。
 和真は、しばらく呆然としていたが、「やれることはやった」と気持ちを切り替えようと努めた。
 須貝が戻ってきた。
 「ありがとうございました。藤沢先生のためにはならなかったかもしれないけど、俺はまた一歩前に進むことができました。先生のお陰です」
 和真は携帯を返しながら礼を言った。 
 すると須貝がしみじみと言った。
 「ドアの外まで声が聞こえたよ。それにしても和真君は強くなったな。外見も中身も。別人のように強くなった。もう治療の必要はないな。和真君自身の力はもちろんだが、藤沢先生の力も大きかった。できることならその姿を藤沢先生にも見せてあげたいと私も心から思う」
 「はい。本当にありがとうございました」
 和真は、須貝に世話になったこれまでの一連のこと、全てに対して感謝の気持ちを込めてもう一度礼を言い、院長室を後にした。

 練習試合当日は、十月も間近だというのに、暑かった今年の夏を思い出させるような快晴で、少し動いただけで汗ばむような陽気だった。
 和真たちは一塁側で、スタンドには康平と佳奈が来てくれていた。 バックネット裏スタンドはガラガラだったが、それでも数人、近所の野球ファンらしき観客が観に来ていた。
 スタンドに伶の姿はやはり無い。だが、いつ観に来てくれてもいいように和真は試合に集中した。
 和真は、六番、レフトで先発出場した。
 試合は互角の勝負を展開していたが、七回を終わって、二対四で負けていた。
 そして八回表、相手の攻撃を零点に抑え、和真が守備位置からベンチに戻ろうと走り出した瞬間、バックネット裏のスタンドの入り口に伶らしき女性が見えた。和真は外野の芝生から内野の土のグラウンドへいつもより速く走り、そして確認した。椅子に腰掛けた女性は間違いなく伶だった。
 伶が来てくれた。自分が野球をしている姿を観に来てくれた。和真はこれまでに無いほどの野球ができる幸せを感じていた。だが、それは伶だけのせいでは無いことにもこの時同時に気付いた。伶は一部だった。
 佳奈が観てくれている。康平も観てくれている。そして隆と亮輔もきっと観てくれている。その中でプレーができる。それを伶が来てくれたことで、より一層意識することができた。 
 八回の裏、ツーアウト、ランナー無しで和真にこの試合最後のバッターボックスが回ってきた。練習試合だから延長は無い。和真はそれまで三打数二安打していた。相手ピッチャーとは二打席目の対戦で前の打席はショートゴロに打ち取られている。
 初球は内角高目へのストレートを見逃し、ストライク。二球目は外角低目へのカーブを見逃してボール。三球目は、また内角へのストレートをやはり見逃し、ストライク。カウントはツーストライク、ワンボールとなった。
 ここで和真の集中力はさらに増した。相手ピッチャーの決め球がスライダーなのは、前の打席やチームメイトへの配球で分かっている。しかも切れはいいがコントロールが甘いのも分かっていた。
 「次の球で勝負に来る」
 和真は次のスライダー一本に集中した。
 投げ込まれたのはやはりスライダーだった。しかもコースは外角真ん中寄り。和真はバックスイングから最短距離でボールをジャストミートした。「コン!」乾いた打球音がグラウンドにそしてスタンドに響いた。 
 和真の打球は、バックスクリーン左の芝生に突き刺さった。そしてゆっくりゆっくりダイヤモンドを一周した。
 その時、和真の頭の中にあったのは野球ができる喜び、ただそれだけだった。

 試合はそのまま三対四で負けた。
 グラウンドを整備し、ベンチでのミーティングが終わると選手たちが球場から出てきた。
 和真を康平と佳奈、そして伶が待っていた。
 「ご苦労様」
 伶が言った。
 「観に来てくれてありがとうございます」
 和真は、野球用の黒いエナメルバッグを土で汚れたユニフォームの肩に掛けたまま、帽子を取って頭を下げた。
 「試合、残念だったね」
 「勝てるほど練習してませんから」当たり前だとでも言うように微笑みながら和真は言った。
 「観に来て本当に良かった。和真君が野球してる姿を観られて、しかもホームランまで観られて…」
 伶は涙ぐみ、ハンカチを出して目を押さえた。
 「藤沢先生のお陰です。藤沢先生がいなかったら間違いなく俺は今日ここで野球をやってなんかいません。もちろんホームランも打っていません。俺は今日、生きてるって思いました。本当に生きてるって実感しました」
 和真は、真っ直ぐに伶を見据えながら言った。
 「ありがとう」
 伶は俯き、さらに溢れ出てくる涙を拭いた。
 「あなたは素晴らしいカウンセラーです。今日の俺がその証拠です。そしてこれからの俺がその証拠になります。だから続けてください、カウンセラーを。患者さんみんなが待っています。亮輔も絶対にそれを望んでいます」
 伶は立っていられなくなり、しゃがみ込んだ。涙は溢れ続け、佳奈がさらにハンカチを貸した。伶は立ち上がれなかった。
 しばらくしてチームメイトがマイクロバスの中から和真を呼び、やっとで伶は立ち上がった。
 すると和真は突然佳奈の手を取って言った。
 「俺はこれからも頑張ります。こいつと一緒に頑張ります」
 和真は康平も見た。康平はいつものニヤッとした笑いを浮かべて和真を見た。 
 今度は佳奈が泣き出した。声を出して泣き出した。逆に伶が微笑みながら佳奈に二つのハンカチを差し出し、佳奈の背中を撫でた。
 和真は、佳奈の手を握ったまま、もう一度帽子を取り、
 「ありがとうございました」
と伶に向かって言って頭を下げた。伶は何も言わず、ただ頷いた。
 和真は走り出し、バスに駆け込んだ。
 三人が見送る中、バスは動き出したが、和真がそちらを見ることはなかった。

 一か月が過ぎ、野球シーズンも終わりを告げようとしていた。
 和真は、さらに野球の勘を取り戻し、体力も高校時代並みに戻っていた。公式試合にも出場し、クリーンアップを任されるようになった。バイトも続け、バイト代で誕生日に何も買ってあげられなかった佳奈に小さなパールが一粒付いたネックレスをプレゼントした。
 佳奈は、相変わらず和真との距離感を大事にしながら、それでも少しずつ近付け、たまに鍵を借りて、和真のユニフォームの洗濯や部屋の掃除をするようになっていた。
 康平は、実は硬派なのに軟派な振りばかりしてしまう、という困った癖が相変わらず治らず、彼女はなかなかできなかったが、持ち前の明るさでたくさんの友達に囲まれながらキャンパスライフを謳歌していた。もちろん、和真と佳奈との友情に変わりはなかった。
 高橋は退院したらしく、その後、試合があるからと一度電話をしたが、解約されたのか繋がらなかった。だが和真は、きっと高橋も前に進んでいるんだろうと信じていた。もしかしたらもう銀行に戻ってあの明るいキャラクターで頑張っているのかもしれない。そしてまたいつか必ず会える、とも信じていた。

 十一月に入ったある日、部活が終わって、アパートに帰ると郵便受けに手紙が一通入っていた。伶からだった。和真は、バッグを床に置くとベッドに腰掛け、手紙を開いた。

拝啓 秋も深まり、野球シーズンもそろそろ終わりかなと思っていますが、お元気ですか。
 私は今、一関の実家にいます。
 須貝メンタルクリニックは、しばらく休職させていただいていましたが、十月を以って、正式に退職させていただきました。
 亮輔君のことがあって、それからしばらく悩み、そして辞めることにしたのです。
 いえ、亮輔君のことだけが、理由ではありません。
 患者さん方は、和真君や亮輔君のように私に心を開いてくれる人達ばかりではありませんでした。私がまだ若く、経験が浅いせいもありますが、何より「未熟」なために、心を開いてくれない患者さんもいました。一言も話してくれず、私の話も聞いてくれず、カウンセリングが全く成り立たない患者さんもいました。一人や二人ではありません。私はカウンセラーとして正直悩み、行き詰まっていました。そんな時に亮輔君のことがありました。そして私は完全に自信を無くし、カウンセラーを辞めようと思いました。
 ただ、その時の辞めようとした理由と、こうやって実際に辞めた理由とは全く違います。それは和真君のお陰です。
 私は、四月から仙台の大学に戻り、もう一度カウンセラーとしての勉強を一から始めたいと思っています。今度こそ誰からも信頼され、その悩みを一緒に共有しながら前に進んで行けるカウンセラーを目指して。今はその受験に向けての勉強中です。
 亮輔君のことについても、考え方が変わりました。もちろん残念で今思い出しても涙が出てきそうです。でも、これはカウンセラーとして乗り越えなければならない試練だと思いました。そしてカウンセラーとしてだけでなく、私自身、人間として糧にしなくてはならないことだと。
 和真君の姿がそれに気付かせてくれたのです。あなたは私のカウンセラーとしての誇りです。
 それでは、野球頑張ってください。佳奈ちゃんと仲良くね。      敬具
              藤沢 伶   
伊沢和真様     

追伸 
 また、どこか出会いましょう。野球場かな。

 和真は、手紙を閉じ、ベッドに置くと立ち上がって外を見た。綺麗な夕焼けだった。秋風に緑のカーテンがそよいでいる。
 ふとあの油蝉を思い出した。
 生きていることを誇示するかのように必死で鳴き続ける短い一生。この夏から秋にかけての自分もそれに似ていたような気がした。必死に鳴き続けていた。ただ絶対的に違うことがある。蝉は死んだが、自分はこれからもずっと生きていく。おそらく時々鳴きながら。
 和真は、窓枠に両手を付いて体を支えると、外に大きく顔を出し、蝉が消えていった隣のアパートの屋根の赤と夕焼けの赤が溶け合う狭間を見つめながら秋の夕暮れの涼しい空気を肺の奥深くまで吸い込んだ。    
                 了      

2008年ソニー・デジタルエンタテインメントより発行 iBooks、Kindle、コミックシーモア等から販売
現在の著作権は著者に帰属

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