見出し画像

『ハマヒルガオ』第8話:祖父への思い


第8話:祖父への思い


「お祖父ちゃん、入院することになった」と母から告げられたのは、ある日の晩御飯の時であった。六夏も弟の睦斗も、あまりにも急な話であったため、状況を呑み込めず返答に窮した。

「背中が痛くてどうしようもないって言うから、病院に連れていったの。そしたらお医者さんから、悪い病気の可能性があるから、検査入院をしましょうって」

 母の声はどこか力無かった。六夏には嫌な予感が走った。

「悪い病気って、まさか癌とかなの?」

 六夏はそれまで食べていた箸を止め、父と母を同時に見回す。六夏の質問に二人とも黙ってしまったので、六夏は苛立った。

「ねえ、教えてよ。癌なの? お祖父ちゃんは癌なのね」

 六夏は口に含んでいた米粒を飛ばす勢いで声を荒げた。

「まだわからん。検査は二週間くらいかかると言われているから、そこではっきりする」
 
 父はあっさりとした口調で答えながら味噌汁を啜る。どこか他人事のような態度が、六夏を余計に苛立たせたが、ここで騒いでも何が変わるわけでもないとも思い、それ以上は何も追及しなかった。
 
 週末に、祖父が入院する総合病院へ行った。場所は、御宿の隣町で同じ夷隅郡の大喜多町というところにあり、車でも三十分はかかる。母の運転で六夏と母の二人で行くことになった。父は仕事の関係で行けず、六夏もサーフィンの大会があるということで行けないとのことであった。
病院の受付で「阿泉文斗のお見舞いで来ました」と母が看護婦さんに告げる。案内された病室は他の患者もいる相部屋になっていて、四つのベッドが置かれていた。いずれのベッドもカーテンで周囲を仕切ってあり、こちらが緊張してしまう程に静まり返っていた。

 祖父はベッドに横になり、備え付けのテレビでイヤフォンをしながら大相撲を視ているところであった。六夏が不安いっぱいの面持ちでやって来ると、「おお、六夏か」とイヤフォンを耳から外し、いつもと変わらぬ感じで返してくる。

「お祖父ちゃん、大丈夫なの?」

「ああ、なんてことはないのだがな、先生が大げさに言うものだから」と祖父は寝ていた体を起こした。

「頼まれていたもの持ってきたわよ」

 母はそう言って、コンビニで買ってきたお菓子のハイチュウとクランキーチョコレートの入った袋を祖父に手渡した。祖父はニヤニヤしながらそれを受け取ると、「ここじゃ煙草が吸えんからな。口が寂しくて仕方がない」と口元を緩める。

「当たり前でしょう。病人なのよ。煙草もお酒も当分は駄目」と母が呆れ顔でたしなめる。その後母は、「少し先生と話をしてくる」と言うと、すぐに病室を出て行ってしまった。
 
 六夏はベッドの脇にあった丸椅子に座り、祖父の様子を覗った。祖父の頬は以前よりもさらに痩せこけているような気がした。

「心配かけてすまんの。すぐに家に帰れるから、六夏は何も気にすることはない」と言う祖父の姿が、どこか強がっているように見えてしまう。

「本は読んでいるか?」

「最近は読んでない。お祖父ちゃんが書いたものだけずっと読んでいる」

「そうか、それは嬉しいな」

「それについて、聞きたいことがいっぱいあるから、早く戻って来てね」

「ここで話してもらっても構わないぞ」

「うん、ここだと話し辛いからまたにするよ」

 六夏には、外の場所で祖父の手記の話をすることは躊躇われた。日頃から、この話は普通の人には理解されまいと考えていたし、どうせフィクションのようにしか捉えられないだろうという負い目があったのも確かで、軽々しく口にすることができない。病院という空間の雰囲気が一層に思いとどまらせるのであった。

 六夏は話題を変え、相撲の何が面白いの?などと話をすることでその場を取り繕っていたのだが、ふと、祖父の枕元にある雑誌を目にしてしまう。

「お祖父ちゃん、それ」

 六夏が指さしたその雑誌は、祭りの日に美津子叔母さんに見せてもらった経済紙『千葉経済季報』であった。表紙の写真が同じなので、父が載っているものに間違いない。すると祖父は、「ああこれか」と慌てた口調になり、後ろめたさを感じているのか、咄嗟に枕の下に隠してしまった。

「私も見たよ」と六夏が口にすると、祖父は、何のことやらとすっとぼけた感じでいるので、「お父さんが載っていた」と自分から話を切り出した。

「そうか、お前も知っていたか」と祖父は観念する。

「お父さん、この間は御宿の祭りも仕切っていたみたいだし、町でもどんどん偉くなっているみたい。凄いよねえ」

 六夏が、父に感心しているという口調で話すと、それまで柔和な表情であった祖父の顔が急に曇り出し、六夏を睨み付けるようにして見返してきた。

「冗談はよせ。あいつは、阿泉家の恥さらしだ」と祖父は語気を強めて言う。
 
 六夏は祖父と父との間にあるわだかまりを知っていたので、あえて挑発的に言ってみたのであった。二人の間で何があったのか、その真相をそろそろ知りたいと思っていたからでもある。案の定、祖父はむきになり、話に乗って来た。他の患者もいるので、声を潜めて話していたが、その語気は次第に強まっていく。

「御宿には歴史がない。だから、新しい歴史を作るなどと奴はぬかしている。阿泉家のご先祖様が護ってきた思いも知らず、よくもまあそんなことが言えたものよ」   

「お父さんいつの間にこんな人になっていたの? ついこの間まで、ただのサラリーマンだった人じゃない。そんな人が何で?」

「金の亡者たちが、阿泉家を食い物にしたのだ。お前の父親はそんな悪い連中にそそのかされ、勝手なことをしてしまった」

「悪い連中?」

 六夏が眉間をしかめて訊ねると、祖父はうっかり口を滑らせてしまったというように、急にわざとらしい咳払いをする。

「すまない。何でもないよ。こんな話、六夏に聞かせることじゃあない」

「何でもないことないでしょう。ねえ、教えてよ。お祖父ちゃん、お父さんと何かあったの?」

「いや、その」

 祖父は口をまごつかせながら、誤魔化すようにして布団に潜ってしまった。

「お祖父ちゃん、隠さないで。私だってもう大人なのよ。お祖父ちゃんとお父さんの間で何かがあったことくらい勘ぐるわよ」

 するとその時、母が病室に戻って来て、「ちょっと六夏、他の方の迷惑になるから静かにしなさい」と怪訝そうな顔で六夏たちのやり取りを遮る。

「お祖父ちゃん、先生と話してきた。検査の結果が来週にはわかるって。またお見舞いに来るから」

 母は祖父にそう告げると、六夏の肩を叩き、「そろそろ行くわよ」と退室を促す。祖父は全身に布団を被ったまま、「ああ」と声は返すのだが、再び顔を出そうとはしなかった。
 


 夕方、六夏はもやもやした感情で家に戻る。
「おやつ食べる?」と母に訊かれたが、「いらない」と断ると、外に出てそのまま離れの小屋に向かった。いつものように祖父の部屋で過ごそうと思ったのであった。
 そこに祖父がいない、というだけで、離れの小屋は廃墟になってしまったような静けさであった。玄関の引き戸は施錠されていたが、祖父から合鍵を貰っていたので、その鍵で家に入る。六夏は「お邪魔します」と囁きながら框に上がると、家の明かりをつけた。仏壇の祖母の写真にお辞儀をしてから、祖父の書斎へと向かった。

 いつものように、祖父の蔵書がある。
 書物に囲まれていると落ち着くという感情は、なぜかこの日に限っては湧いてこなかった。祖父の入院という出来事を前にして、なぜか活字を読む気になれなかった。本に書かれた言葉など無力なのではないのか? そんな気持ちさえこみ上げてくる。それでも、この部屋にやってきたのは、祖父を感じられる場所がやはりここであったからだ。

 物音一つしない部屋で、六夏は書棚に並べられた書物の数々と、ずっと睨めっこをしていた。これまでは気付かなかったのだが、よく見ると、華々しい文学や哲学の書に並んで、『房総の郷土史』や『夷隅民話』、『日本における海洋民の総合研究』といった、誰が書いたかわからないような渋めの古書も多いということがわかる。試しに手にとってみるが、読んだ傍から退屈そうだということがわかりすぐに棚に戻す。

 すると、それらの書物に挟まれ隙間からはみ出していた、少し厚みのある紙片が目に留まり、何だろうと思いその紙片を引っ張り出し手に取ってみる。見ると、紙面いっぱいに祖父の文字で書かれた文章がある。紙片は数十枚に渡り、クリップがされていた。何が書かれているのかと目を通してみると、紙片の何枚目かにタイトルだけがあり、こう書かれていた。
 
[第八章]「 既存秩序と支配制度の構造的力、およびそれに抗する力について」
 
何やら小難しそうな章タイトルであるが、それは祖父の手記『阿泉家の歴史と賦霊の力について』の一部なのではないかと直感できた。よく見ると、紙片の左端は破れ目になっていて、手記から切り離されたものなのではないかと六夏には推測できた。なぜこの章だけが、祖父の手記から切り離され、書棚に隠されていたのかと、言いようのない興奮を覚え、文章を一から目で追ってみる。冒頭には、いきなりこんな言葉が記されていた。

勝者が書くものは歴史と呼ばれる。
敗者が書くものは、歴史ではなく、文学と呼ばれる。


 どういうことか?と、六夏は食い気味に先を読み進めていく。
 

権力闘争の勝者だけが歴史を書く資格を得る。では、敗者に歴史はないのか? ない。敗者は、歴史を記すことができない。つまり歴史から抹消されるのだ。しかし言葉は、敗者にも残る。だが、敗者が語るもの、書くものは歴史として扱われるのではなく、むしろ文学と呼ばれる。

歴史を裏付けるものが言葉の力であるならば、文学が人の魂を揺さぶることも言葉が持つ力に他ならない。しかし、言葉それ自体にそのような力があるのではない。言葉が「聖性なもの」であるという信仰が、そのような力学を作り出すのである。日本においても、古代より、言葉には霊力が宿るという言霊信仰があるのだし、キリスト教の信仰を支えるものは神、イエス・キリストの言葉に他ならない。それら信仰の力がいかに強固なものであるか、聖書というテクストが何千年もの時間を経ても世界中の信者に読み続けられるという事実からも明らかである。言葉とは、神の力の現われとして捉えられてきた。最初は予言者たちが、神の言葉を代弁することで音声により伝えてきた。しかし、書くということを発明した人類は、神の言葉を、書くということで、永遠なるものにしようと努めた。声は残らないが、書いたものであれば、時を超えて残り続けるのである。

似たような例を挙げよう。貨幣がなぜ貨幣としての価値を持つか。それは貨幣の価値を、あるいは貨幣が持つ力を、誰もが「あるもの」として信じ、疑わないからである。誰もが信じることは、現実になるのだ。

言葉もまた、聖性なるものとして扱われ、権力にも利用された。それにより、時の為政者が、言葉により強固な支配システムを築いてきたことは、世界を見渡しても揺るぎない事実であろう。支配者が、自分たちの血統を神話世界と結びつけたがるのは、自分たちが神の一族であり、人間を統べる正当性を持っているのだということを、被支配者に認めさせるためである。被支配者もまた、その言葉を聞き、読み、信じ、それを疑わないということで、構造はより強固なものになるのである。

紙片・第八章「既存秩序と支配制度の構造的力、およびそれに抗する力について」ページ数記載無し

 六夏は、その文章を読みながら、体が熱くなってくる高揚感と、同時にどこか空恐ろしい感情が湧き上がってくることを禁じ得なかった。まさにアズミノ国でもまた、書くことで歴史を残そうという運動が起きていたからだ。
さらに先を読み進めようとノートをめくっていくと、次のような文章が目に飛び込んできた。

支配権力に抗する力、巨大魚の力とは?

 あまりに唐突な「巨大魚」という一語を目にし、六夏は面食らう。それまでの学術調な文章に対し、そのワードはあまりにも違和感があったからだ。むろん、その巨大魚というものが、オオクニヌシと賦霊の力の話であることは了承している。それだからこそ、話の結び付きがなおさらに気になった。
その時、玄関の引き戸が開かれる音がして、誰かが小屋に入って来る気配があった。

「戸締りしてなかったのか」

 声の主は、父であった。

「やだ、灯りも点けっぱなしじゃない。おかしいわね」と母の声も聞こえてくる。

 声と二人の足音は次第に書斎の方に近付いてきて、こちらに向かってきているのがわかる。父と母がなぜこの離れの小屋にやって来たのだろうか。後ろめたさなど何一つ抱く必要がないというのに、六夏はなぜか咄嗟に押し入れに隠れたのであった。祖父の紙片を手にしたままであった。
 押し入れの暗闇の中で、息を潜めながら六夏が耳を欹てていると、父と母が、祖父の書斎に入って来るのがわかった。

「なんだ、なんだ、この本の量は」

 祖父の部屋を支配する書物の量に圧倒されているのだろう、父が驚きの声をあげている。

「お父さんが学生だった頃からよ。増え続ける一方で、一冊も手放さないの」

 母が溜息をつきながら話している。

「どうするんだ、これ。古本屋に買い取ってもらうか?」

「でも、お父さんは御宿の民俗資料館に寄贈するって言っていたわよ」

「寄贈しても、この町で誰がこんな本を読むんだ? 少しでも金になるならそっちの方がいいだろう」
 
 二人は、一体何の話をしているというのか。まさか、祖父がこの先長くないと分かっていて、部屋の整理について話し合っているのだろうか。祖父の様態は、実はかなりまずい状況にあるということなのだろうか。そのことを、六夏は何一つ知らされていない。六夏の中で、ふつふつと怒りがこみ上げてくる。
 
 父と母は物色するように書棚の本を取り出しては戻すなどを繰り返している。

「手を出すな、お祖父ちゃんの本に手を出したらただじゃおかない」

 押し入れの中で息を押し殺していた六夏は、心の中で叫んでいた。それにしてもなぜ、自分は身を隠しているのだろうか。押し入れの隙間から、六夏は目を細め、父と母の動向を見守ることしかできなかった。

「とにかく、どこかで処分しないとな」

 父がそう言うと、母も「そうね」と頷いている。しばらくして、二人はようやく書斎をあとにした。六夏は、身を潜めたまま、二人が小屋から出ていくのを待った。

 お祖父ちゃんの書物を処分? そんなことは絶対にあってはならなかった。この書物は、祖父の細胞であり、血肉であり、魂そのものである。六夏は震える体を抑えるようにして、唇を噛み締める。父はともかく、母までもが同調していることが六夏にはショックであったし、阿泉家の人間として許し難かった。
 
 この家が、父に呑み込まれる。父のものになっていく。そんな意識が六夏の脳裏を駆け巡り、動揺が抑えられなかった。

 二人の足音は、次第に遠のいていく。

 しばらくすると、玄関の引き戸を施錠する音が、「ガチャリ」と大きな響きをもって鳴り響いた。



#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?