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『ハマヒルガオ』第13話:巨大魚召喚


第13話:巨大魚の召喚


 年が明け、三学期も始まるという頃、祖父が危篤であるという連絡が六夏(りくか)にも入った。もう祖父は末期の状態にあったので、いつそうなってもおかしくなかった。ずっと付き添っていた母から、学校に連絡が入り、六夏と睦斗は父の車で急いで病院へと向かったのであった。六夏は、その知らせを聞いても、もはや涙は出てこなかった。祖父は死ぬのではない。自然に還っていくだけなのだと、六夏の中では消化できていたつもりであった。

「自由な人であるほど、死を恐れない」とは、誰だか忘れたが、哲学者の言葉にあったと思う。その意味で、祖父は自由人だったし、祖父はずっと過去を生き続けている。それは、死という概念とは無縁の古の種族なのだ。六夏はそのようにして、祖父が目の前にはいないという現実と、しっかりと向き合った。

 祖父の四十九日が終わり、三月に入ったある日のことであった。
 
 いつものように学校から帰って来た六夏は、家の前の異変に気が付いた。
何かを燃やしている匂いがしたのであった。
 庭の真上には、灰色の煙がもくもくとあがっている。嫌な予感が走った六夏は、急いで庭に飛び込んだ。見ると、父と弟の睦斗が、ドラム缶の前で何かをしている。ドラム缶からはオレンジ色の炎が、蛇の舌のようにちらついていて、その中に何かを放り投げていた。資源ゴミや新聞などを燃やしているのかと思って、なんだ、そんなことかと六夏は胸をなで下ろしたのだが、嫌な予感はやはり的中していた。

 睦斗が放り投げていたのは、資源ゴミでも新聞でもなく、書物だったのだ。よく見ると、父と睦斗の後ろに、幾つもの書物が山積みにされているのであった。
 それは、明らかに祖父のものであった。
 文字通り、ぷっつりと何かが切れたような音が、米神のあたりで聴こえるのが六夏にはわかった。

「ふざけるな」

 六夏は父と睦斗の方に向かって駆け出し、自分でも信じられないような下品な言葉を発し、ドラム缶の前の男二人を罵倒した。驚いた睦斗が、「おわあ」とひっくり返った声をあげ、仰け反った。

「どうした六夏」

 手にトングを持った父が怪訝そうな顔をして、六夏の前に立ちはだかった。

「何しているのよ!」

 六夏は父と対峙し、敵意むき出しの目で父を睨みつけた。

「何って、片付けだよ」

 父は、六夏が何に対して怒っているのがまるで見当がついていないようであった。

「その本、お祖父ちゃんの本でしょ」

 六夏は、唾を飛ばしながら叫び、父の足元に積まれていた書物を指さす。
 父も睦斗も、それがどうしたんだ?という、済ました顔をしている。それがまた六夏には腹立たしく許し難かった。

「勝手にそんなことしないでよ」

「何を言っているんだ、六夏。お祖父ちゃんはもういないんだ。こんな大量の本、いつか処分しなければと思っていたんだ」

「誰が燃やしていいって言ったのよ」

 六夏はもはや涙声である。怒りと悔しさと、そして憎しみが溢れ出てきて止まらない。

「処分するって大変なんだぞ。もうあと少しだけど」
 
 睦斗の何気ない一言に六夏は絶望にかられた。
 
 あと少し? 冗談でしょう?
 
 六夏は踵を返すと、「うわああ」と声にならない声をあげ、離れの小屋に向かって飛んでいくのであった。

「うそでしょ、うそでしょ、うそでしょ」

 頭の中で、六夏は繰り返し唱えていた。何かの間違いであってほしい、祈るような気持ちであった。
 
 書斎に辿り着いた六夏は、信じられない光景を目の前にし、膝から崩れ落ちた。祖父の部屋にあった書棚は、どれも蛻の殻になっていたのだ。本を支えるためにあるブックエンドだけが虚しく残されている。いくつかの雑誌が祖父の机の上に積まれていたが、いちばん上にあったのは、父が掲載されていた千葉経済誌であった。これだけが残されているというのもまた、六夏の怒りの火に油を注いだ。
 
 その時、六夏の脳裏には最悪の事態が過った。書斎の机の引出を開ける。何かの間違いだと思い、他の引出も次から次へと開けていく。だが、引出しの中は塵と紙屑以外は空っぽであった。六夏は絶叫する。そして、机の上に両拳を振り落とした。
 
 手記が、ない。

 紙片が、ない。

 六夏が書き留めていた大学ノートが、ない。

 頭の中がどうにかなってしまいそうであった。離れの小屋を飛び出し、足をもつれさせながら、父と睦斗がいる庭へと戻った。

「おいおい、一体どうした」

 父はまだ、事態の深刻さをわかっていないようだ。

「ねえ、机の中にあったノートはどこへ行ったの? どこにあるの?」

「ノート?」
 
 父が、知っているか?という感じで睦斗の方に目をやる。

「ああ、なんかいろいろと文字が書かれていたやつね。もう燃やしちゃったよ」

 睦斗がいともあっさり言う。

「燃やした? 全部?」

「ああ、机にあったやつは全部」

 睦斗はそう言いながら、手に持っていた本を、なんの躊躇もなく、炎立つドラム缶の中に放り込んだ。
 
 その時、六夏は自分より体の小さい睦斗に対して、覆いかぶさるようにして飛びかかった。驚いた睦斗は、そのまま地面に倒れ、背中と腰を打ちつけた。

――どうしてお前はいつも、私の大事なものを壊してしまうの? 大事にしていた人形も、ぬいぐるみも、ハマヒルガオの花も。私にとって愛しいものを破壊する。そして今度は手記まで奪ったのね。わからせてやる、わからせてやる。大事なものを失った者の気持ちを。

 六夏の中で、さまざまな感情が、グッチャグチャに入り混じり、火にかけられた毒薬のように煮えたぎっていた。このままでは、弟に対する怒りは、怒りという単純な感情を超えてしまい、狂気になり、殺意にさえなってしまう。六夏は睦斗の胸ぐらを二つの手で掴むと、そのまま抑えつけ、首絞めにしようとした。もうすぐ九歳になる睦斗の抵抗する力は強かったが、六夏もまた、自分でも考えられないくらいの力が漲っていた。

 だが、こんな時、いつも止められるのは、六夏の方であった。それも、六夏にはわかっていた。六夏の襟元に手がかけられ、掴まれ、そのまま飛んで行ってしまうのではないかというような衝撃で、後ろに引き離された。

「いい加減にしろ! 六夏」

 六夏と睦斗の揉み合いは、父によって制止された。六夏も物凄い力で引っ張られたものだから、地面に尻を強く打ちつけた。父も、六夏の異様な敵意を察したか、手加減ができなかったようだ。

「頭がおかしくなかったのかお前は」

 父が鬼のような剣幕で顔を震わせて、六夏に怒鳴りつけた。額には、青く太い血管が浮き出ている。睦斗に何かあってみろ、ただじゃおかないぞ。父はそんな目をしながら、六夏を見下ろしてくる。
 
 六夏は、咄嗟に父を睨み返していた。

 上等だ、許さない。お前たちを許さない、と六夏は歯と歯を噛み締める。涙など通り越し、目から血が流れ出てくるんじゃないか。そんな悲しみと憎悪が織り交じった感情に打ちひしがれた。

――お前たちなど呪ってやる。これは、オオクニヌシ様への侮辱だ
 
 六夏はその場から立ち上がると、父と睦斗に背を向けて、庭を飛び出していた。
 
 清水川沿いの通りに出て、御宿海岸に向かって走った。

 走りながら六夏は、呪文のようにして、感情と共に湧き上がってくる思惟を口にする。
 やつらは、祖父の血肉、いや魂というべき書物を、いとも簡単に燃やしてしまった。百歩譲って、それら書物はまだよい。何度でも買い直すことができるからだ。だが、祖父によって書かれた手記は違う。手記は、もう二度と再現がかなわないのだ。これでは、祖父は二度死んだようなものじゃないか。いや、祖父は殺されとのだといってよい。そればかりではない。阿泉家の歴史を書き継いできた手記が燃やされたということは、阿泉家の歴史が、相馬家の血である父、龍二によって抹消されたということなのだ。

 これは、阿泉家の死に等しい。

 なんたることか、これでは、オオクニヌシ様の怒りに触れてしまう。オオクニヌシ様の魂を受け継ぎ、古の種族の末裔である阿泉家。オオクニヌシ様の化身である巨大魚の謎を解くカギを握る阿泉家が、今まさに根絶されようとしているのだ。こんな事態を、オオクニヌシ様が許すわけがない。
 
 六夏が何より恐れたのは、オオクニヌシ様が蘇ってしまうことである。
父は、その封印を解いてしまった――。
 
 さっきまで、雲一つない晴天であった空を、いつの間にか蜷局を巻くような灰色の雲が覆っていた。その濁った空の色は、六夏をよりいっそうに不安にさせた。
 まずい、やはりオオクニヌシ様の目覚めの時が近付いているのだ。
すると、突然、雹のような大粒の雨が空から降って来て、六夏の体を濡らす。その雨に打たれながらも、六夏は我を忘れて走った。雨は突き刺すように冷たかったが、怒りの感情で真っ赤に燃え上がった六夏の体を冷ますことはなかった。清水川の流れも次第に早くなっているのがわかる。海岸前の通りに辿りついた頃には、アスファルトの舗道は水浸しになっていた。

 御宿海岸では、夏に咲くはずのハマヒルガオが、なぜか浜辺一帯に夥しい数の花を咲かせていた。そんな光景はこれまで見たことがなかった。地を這いながら咲くハマヒルガオが、雨に打たれながら砂浜の上に白い絨毯の道を作っていた。それはまるで、花たちが、六夏の到着を待ち侘びていたとでもいうように、歓喜の涙を流しながら、踊り咲いているかのようにも見える。

「女王様、お帰りなさい!」そんな花たちの合唱が、六夏の耳元に聴こえてくる。

 網代湾から押し寄せてくる波は、すでに荒々しく猛っていた。獣の蹄のような形をした重厚な波が、海岸の堤防や岩を砕かんばかりである。波は勢いよく崩れるが、陸を引き摺りこむようにズズズという音を立てながら引いていく。

 砂丘に立った六夏は愕然とした。これまで見たこともない、それは天に突き刺さるのではないかというくらいの巨大な壁のような波が、遠い水平の先に聳え立っていたからだ。六夏の鼓動が急に激しくなり、これから押し寄せてくる恐怖のあまりに、震えが止まらなかった。

――オオクニヌシ様が、蘇ってしまった。

 あれが、こちらに到着したらどうなるものか。
 壁のようでもあり、巨人の掌のような形で迫ってくる波は、こちらに到着するやいなや、この海岸背沿いの街をすぐに呑み込み、すべてを奪い去ってしまうことであろう。房総半島の外房に位置する夷隅郡は、真っ先にその餌食となってしまう。あと一時間も経たぬうちに、人智を超えた巨大な波が空一面を覆うようにして現れ、天から落ちるようにしてその触手を叩きつけ、方々に砕け散る。尋常ではない強大なエネルギーが、山沿いの白亜のリゾートホテルや、商店街の道路、建物のことごとくを破壊するであろう。

 次に、濁流となった水が、とてつもない勢いと速さでこの御宿町への浸食を始め、街頭に放置されていた車や、植林を次々となぎ倒し、まるで巨大魚のようなその顎を開き、モノというモノを呑み込んでいく。
 六夏には、それが容易に想像できたのだ。

 壁のような波は、一見少しも動いていないようにも見えたが、明らかに裾野を膨らませていて、刻々とこちらに近づいているのが分かった。
この強大な力が蘇ってしまうことを、阿泉家のご先祖様も、新しい種族も恐れていたに違いない。阿泉家の歴史を消そうとする父への怒りと憎しみも大概であったが、そんなことを言っている次元ではない。これを食らっては、調和も対立も何もあったものではない。人間が築いてきたこれまでの歴史そのものが呑み込まれてしまうのだ。

 六夏は、御宿海岸からはさらに東の方にある、小波月(こはづき)海岸へと向かうことにした。
 小波月海岸はここから走って向かっても、三十分はかかる。だが、小波月海岸は大岩が波の浸食によって造形された崖になっているから、ここにいるよりも見晴らしがよく、沖の様子がはっきりとわかるはずだ。
沖から吹き付けてくる風が強くなり、それに乗じて雨もまた力を増し、六夏の小さな体を打ちつける。

――オオクニヌシ様の怒りを鎮める方法は一つしかない。
 
 阿泉家の選ばれし人間である、私、阿泉六夏が、この網代湾に飛び込み、オオクニヌシ様と一体になることである。そんなことは、祖父の手記のどこにも書かれていないが、六夏にはそのことだけが、オオクニヌシ様の怒りからこの日本を護るための唯一の答えであると、確信のようにして閃いたのであった。小波月海岸の崖の上に立ち、いきり立つ波の中にこの身を沈めるのだ。

 それは、飛び込みの選手が水の張ったプールに落ちていくように、直立したまま垂直に、重力のままに、下へ、下へ、と華麗に落ちていく。その時、私は重力と一体となっている。重力に潰され、地上に這うようにして生きる他ないこの世のあらゆる生物とは異なり、私はその重力から解放され、永遠の自由を手に入れるのだ。そのまま海中に落ちた私は、渦巻く水の中でしばらくはもみくちゃになるだろう。でも、大丈夫。私は古の種族、出雲の氏族の一つである海人族の末裔、阿泉家の人間だ。
 
 水底に落ちていった六夏は、しばらくすると落ち着きを取り戻す。海女のように水中を滑らかに泳ぐのは、昔から得意とするものだ。泳ぐというよりは、時にたゆたうように浮遊する魚のものに近い。何万年もの時間を経て、手や指へと進化したとされる魚の鰭のように、六夏は弧を描くようにして手を回し、土を掘るように指で水を掻く。粘性、造波、圧力という三つの抵抗を、推進力と速度で打ち負かし、浮力によって重力が相殺された空間を突き進む。六夏が動くたびに、水は衣のように皮膚に纏いつき、水と身体の輪郭の境界は消失していく。

 やがて、海中を泳ぎ進んだ六夏は、オオクニヌシ様の本来の姿と邂逅するであろう。この時、六夏の身体は、ようやくオオクニヌシ様と一体になるのだ。もしこの邂逅がなければ、怒り猛ったオオクニヌシ様は、その大顎で、すぐにでも御宿町そのものを、夷隅郡そのものを呑み込んでしまうことであったであろう。だが、六夏と一体となることができたオオクニヌシ様こと巨大魚は、寸手のところで身を翻し、大きなうねりとなって、まるで蒸発していくように天の方へと駆け昇っていく。

 そう、その時はじめてオオクニヌシ様こと巨大魚は、人間の歴史を呑み込むことを止め、一個体である小さな魚の姿に収斂していく。一個体となったオオクニヌシ様は、網目上に張り巡らされた歴史という無限の連なりの大海原を泳ぐことになる。その網目を、するりするりとかわすようにして掻い潜り、行き先や目的のないドライブを楽しみながら、延々と泳ぎ続けるのだ。阿泉家の人間である六夏と共に。

 こうして、この地上の重力から解放された「私たち」は、泳ぐことの自由と引き換えにいつ敵に襲われるかもわからない危険な状況に置かれる。魚の形態や鱗が持つ色彩は、捕食者から身を護るためのカモフラージュなのだという。彼らの背中が青や銀だったりするのは、空から狙ってくる鳥たちが目にする海や川の水面の色に溶け込むためであり、腹が白いのは、水底からやってくる自分よりも大きい捕食者たちが見上げた時、射し込んでくる光が作る白色に同化するためなのだ。この自然が選び取った最適解を身に纏い、「私たち」は日夜水中を泳ぎ、誰かの胃の中に収まってしまうことを露とも知らず漂う。

 そんなヒリヒリするような綱渡りの状況を生きる「私たち」は、正面から戦うことを選ばず、ただ逃げる。いや、逃げることだって悪くない。この生命史という気の遠くなるような時間軸において、小さな魚たちは逃げて、逃げて、逃げて、辿り着いた大海の片隅、河川の方へと逃げおおせ、陸で生きることを選び、四肢を持つ爬虫類へと進化することになったのだから。

 六夏は息を切らせながら、小波月海岸に辿り着いた。冷たい雨に打たれながら、全速力で駆けてきた体はすでに悲鳴をあげていた。最後の力を振り絞り、六夏は崖を駆け上がり、その突端に辿り着いた自分の姿を想像する。
さあ、あとはここから飛び立つだけである。
 そして、その勢いのままに飛び込み、落ちて行けばよい。

 行くぞ。このまま走り続け、オオクニヌシ様に会いに行くのだ――。

 だが、そこまでであった。

 実際に崖の突端の先まで来ると、六夏の体は手前で止まってしまった。恐怖という思わぬ感情が、六夏の想像の力と思考を上塗りしてきたのだ。
立ち止まった六夏は、崖の上から恐る恐る海面を覗き込む。崖下では、昂ぶった波が打ち寄せては、邪悪な生物が大口を開けているように渦巻いている。六夏の体は寒さではなく、本能的な恐怖によって震えていた。両足がこれ以上動かない。そう、最初から崖の上から飛ぶことなど、できるはずがなかったのだ。
 
 六夏の体は疲れ果てていた。そのまま地面に伏すように膝から崩れ落ちた。降りかかる雨が、六夏の頬を伝う涙と混じり合い、六夏はその雨と涙の味を口元で受け止めながら、唇が引きちぎれてしまうのではというくらいに、力強く、噛み締める。
 想像力だけでは、空を飛ぶことはできない。ましてや、恐怖や現実の力に打ち勝つこともできない。

 母の名と同じである小波月海岸の崖の上に立ち、六夏は阿泉家の方角を見る。阿泉家の庭からはまだ、何かを燃やす煙が立ち込めていた。父は、まだ残っている祖父の本を燃やしているのだろう。
 この先、父の龍二が支配する阿泉家の中に身を置かなければならないと考えるだけで、六夏は絶望にも近い不安に襲われる。阿泉家の歴史を消し去ろうという父の力に、どのように対抗しようというのか。

 想像力や感情に任せてはダメなのだということは、「飛べない」ことによって証明されてしまった。ましてや腕力でそれを示そうなどというのも、今の六夏にとっては、結局、想像の域を出ない。そこにこだわろうものならば、この日本社会の根源としてある「父なる力の構造」の破壊を目的とした、日本列島最終戦争などという誇大妄想の類へと陥ってしまうことになるであろう。

 今の自分にできることは何か。六夏はゆっくりと体を起こし、煙の立つ阿泉家を再び睨み付ける。

――言葉だ。言葉しかないのだ

 六夏は、震える指先をおさえるようにして拳を握りしめながら、思いを新たにする。

――祖父の書物を燃やすのであれば、何度でも燃やすがよい。書物は、無限にある。そして私自身も何度でも書き、その無限の連なりの一つになることであろう。

 阿泉家の歴史は私が書くのだ、と六夏は目を見開きながら誓うのであった。そしてそのこと自体が、父、龍二に阿泉家をのっとられ、失意のもとに亡くなった祖父への鎮魂となるはずだ。

 今日という日は、阿泉家における、父と娘の対立を決定的にした「事件」として記憶されることであろう。そして私は、祖父、文斗が書き紡いできた阿泉家の歴史を、何度でも反復して記すことになる。あともう少し歳を重ね、大人になった際には、いち早くこの家を飛び出すことであろう。そして、旅をするのだ。出雲へ行き、東北の日の本へと行く。あるいは、新しい種族が祀る神、オオクニヌシを抹殺し、この国の支配権を奪った神、アマテラスオオミカミが眠る伊勢に行ってみるのも悪くない。そうやって、ご先祖様が辿って来た場所、二つの種族の対立があった場所をなぞることで、阿泉家の歴史を書き継いでいく。

 私が紡ぐ言葉など、今はまだ、吹けば飛ぶような小さな力かもしれない。だが、いつかその言葉たちが、大きなうねりになることを私は信じている。そしてその力で、阿泉家の歴史や言葉をないがしろにした父に、後悔と自責の念を抱かせるまでに、あっと言わせてやるのだ。

 六夏はそう念じると、祖父の手記の「序章」に書かれていた言葉を、今一度思い起こすようにして、声にして諳んじる。
 

ここに私は阿泉家の歴史を記す。
それは到底、歴史と呼べるような代物ではないのかもしれない。しかし、なんと呼ばれても構わない。私が、それを書かなければ、言葉においてその出来事を刻まなければ、阿泉家の先祖が生きた記憶は未来永劫、歴史とは呼ばれぬ片隅に、この世界の暗闇に埋もれたままになってしまうであろう。しかし、誰かがその弱き者の声を、拾い、記憶し、語り、書き継いでさえいる限り、それをまた拾おうとするものは現れる。そのような信念を持って、書くということ以外に、私にできることとは何であろうか。

『阿泉家の歴史と賦霊の力について』11頁

 六夏は小波月海岸の崖を降りると、再び自分の家に戻るために、海岸沿いの路を歩いた。御宿の海はいつの間にか――いや、最初からそうであったと言った方がよいかもしれない、いつもの穏やかさを見せ、退屈なまでの静寂の内にあった。先ほどまで、御宿海岸の砂浜で踊り狂うように咲いていたハマヒルガオの絨毯も、花たちの合唱も、もうそこにはない。六夏が感情の赴くままに走り進めてきた、小波月海岸へと至る足跡だけは、漣をかぶり黒く湿った砂浜に点々と残り続けていた。




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