『フィッシュ・アイ・ドライブ』第3話:風になれ!
*
「あいつ思っていた以上にバカだわ。街中でチャカぶっ放して。あれじゃサツを呼び込んでいるようなもんよ」
女はぶつくさ言いながら、前髪をかき上げる。剛力彩芽のようなショートカットで、よく見ると髪は水に濡れていて、艶がある。バスローブ一枚という姿あたり、風呂上りに部屋を飛び出してきたのだろうか。
アキラは、黒服の男が追いかけてきているかどうか、バックミラーを何度ものぞき込む。男が乗り込んだと思われるタクシーの姿は、今のところ確認できない。当たり前だ。タクシーごときで、フェラーリに追いつけるわけがないのだ。
「あいつ、一体なんなんだ」
少し冷静さを取り戻したアキラは、助手席の女を振り返る。
「元カレ」
女はぶっきらぼうに答える。
「元カレだあ? なんだそりゃ」
アキラは思わず上ずった声をあげる。
「一体何があったら、こんな展開になるんだ。ちゃんと説明してくれ」
アキラは自分の身に降りかかっている今の状況を、まるで呑み込めなかった。いろんな想像をめぐらしてみるのだが、情報が無さ過ぎて、理解が一向に追いつかない。
「説明はあと。とにかくあいつを振り切って」
女はそう言うと、ダッシュボードにあったアキラの煙草に勝手に手を伸ばし、口にくわえる。「火」と女が言うので、アキラは仕方なく胸ポケットからジッポライターを取り出すと、ホイールをまわして着火する。女は顔を差し出し、煙草の先を火に点ける。
なんでオレがこんなことをしなきゃいけねえんだと、アキラは不貞腐れながら女の横顔をチラと覗く。さっきまでパニくっていたのでわからなかったが、よく見りゃ、いい女じゃねえかとアキラは思った。
「ねえ、あんたの名前なに?」
不意に、女がアキラに訊く。煙を吐きながら、アキラの横顔を覗いてくるので、アキラは一瞬ドキッとしてしまった。
「オレ? オレは、檜山アキラ」
「何している人なの?」
「今は、何もしてねえよ。前は自分の会社やってた」
アキラは女が煙草を吸っているのを見て、自分も吸いたくなり、煙草を手に取る。
「ふーん」と、女は素っ気なく返す。
「なんだよ、その反応。アンタこそ名を名乗ってくれよ。こっちは、見ず知らずの他人にいきなり・・・・・・」
「希虹」
「へ?」
「ノア、箱崎ノア」
「ノア? なんか、そんなプロレス団体があったような」
「バーカ、それ言われるのいちばん腹立つ。あんた教養あんの? 普通、旧約聖書のことを思い浮かべない?」
「ああ、箱舟のあれか」
アキラが素っ頓狂な声で返すと、希虹と名乗る女は、フンと鼻で笑うようにして煙を吐いた。
「それってさ、どんな字書くのさ」
「希望の『希』に、『虹』」
「え? それでノアって読むわけ?」
「そう」
「キラキラネームってやつ?」
「ふざけるな。あたしの名前は、アルチュール・ランボーの詩が好きだった、パパがつけてくれた名前。わたしの名前がバカにされるのは本当に許せない」
「へ? ランボー?」
アキラが戸惑った様子で女に訊き返すと、女が何か詩のようなものを唱え始めるのであった。
――大洪水の騒ぎがおさまった直後、野兎が一匹、岩扇と揺れ動く釣鐘草の茂みに来て立ち止まり、蜘蛛の巣ごしに虹に向かって祈りを捧げた
「アルチュール・ランボー、『イリュミナシヨン』の冒頭の散文詩、「大洪水の後」。あたしの名前は、そこからつけられている。まあ、あんたにはわからないだろうね」
女はそう言うのだが、アキラにはピンとこない。よくわからないが、めんどくさそうな女だなとアキラは思った。
いきり立った360スパイダーは轟音を立てて突き進む。景色は溶けるようにして流れていく。麻布通りが交差する、飯倉片町の交差点を超えるのはあっという間であった。
「でもあれだな、まだ状況のみこめてないけど、よくよく考えたら、夜の六本木で拳銃ぶっ放すって、相当やばい展開だよな」
しばらくして、アキラはふと我に返ったというように、弱々しい声で呟く。怯えながら再びバックミラーを覗き込むが、タクシーが追いかけてきている様子はない。
「このまま進むと大使館だ。もしかしたら、警察も通報を受けて、動き出しているんじゃねえのか?」
アキラが何気なく訊く。
すると、希虹が唇を尖らせて言った。
「ビンゴ」
「え?」
前方を見ると、東京タワー通りに入る交差点前が、物々しい雰囲気に包まれていた。いくつものパトカーの赤色の警光灯が点滅し、何十人もの機動隊員が、道を封鎖しているのであった。
次々と前の車が停車し、反対車線へとUターンさせられている。
「マジかよ、どうすりゃいいんだ」
アキラはくわえていた煙草を膝に落としてしまうくらいに、慌てふためく。煙草の灰が、股下に散らばるが、それどころではなかった。
「突っ切って」
「はあ? 突っ切る?」
「もっと踏み込めばいいよ。風になるのよ。風になれば誰にも当たらないから」
「バ、バカ言ってんじゃねえよ」
「いいから!」
希虹が形相を変えて叫ぶ。
前の車が、スピードを落とし始める。機動隊が両手を上げ、ゆっくりと誘導しUターンさせる。
アキラ達の番がくる。
アキラはギアを5速に入れ、アクセルを踏み込んだ。メーターの針が一気に上がる。
「今までこれ以上出したことねえよ」
ハンドルを握っていたアキラの掌が、びちゃびちゃに汗ばんでいるのがわかる。
スピードを緩める様子のない360スパイダーを見て、機動隊員の顔色が変わった。
笛が鳴り響き「止まれ」と口々に叫んでいるのがわかる。
「知らねえからな」
アキラは、ギアを6速に入れる。
轟音が鳴る。これまで聴いたことがない、愛馬の、怒りとも悲痛ともつかぬ、猛った叫びであった。
風が巻き起こる。
音の響きに、車体がついていくという感じだった。
アキラと希虹を乗せた360スパイダーは、加速したまま、機動隊が作る塊に向かって飛び込んで行った。
「当たる!」
瞬間、アキラは目を瞑っていた。ままよ! そう思った時には、何十人といた機動隊の人壁が、崩れ去るように二手に別れた。
360スパイダーは、何ごともなく、機動隊が封鎖していた交差点を通過していた。
「ほらね。風になったわ」
希虹があっけらかんとした顔で言う。
「無茶苦茶だ」
アキラは呆れ返り、泣きそうな声を出す。
途端に、けたたましいサイレンが鳴り響いた。
「あー、追いかけられる人が増えた」
アキラがハンドルを握ったまま項垂れていると、
「見て、あいつめちゃくちゃなことしてる」と希虹に腕を叩かれる。
アキラがバックミラーを覗くと、そこには信じられない光景が繰り広げられていた。
黒服の男が乗っていたタクシーが、機動隊員や、停まっていたパトカーをなぎ倒しながら突っ込んでくるのであった。
ボーリングのピンのようにして、人がはねられ、宙を舞っている。
「おいおいハリウッド映画じゃねえっての」
アキラは、わけがわからなかった。一体自分は何をさせられているのだと、ハンドルを握ったまま、天を仰ぐ。
「ちょっとスピード緩めないで。あいつ近づいてくる」
続く
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