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『ハマヒルガオ』第7話:祭り


第7話:祭り


 御宿海岸の方から、太鼓と真鍮の鉦を鳴らす音が響いていた。
 
 カーン、ドンドン。カーン、ドンドン。
 
 音はどこか間抜けな感じで、一定の間隔を置きながら聴こえてくる。この日は、毎年町内で行われる、御宿祭りの日であった。
「この祭りは阿泉(あずみ)家にとって特別なものである」と父の龍二は、随分も前から鼻息を荒くしていた。

 会社を立ち上げてからの父は、いつの間にか町内会でも顔の広い人間になっていて、地元の行事は積極的に参加していたし、御宿祭りの計画や運営にも大きく関わっていたようだ。次の町内会長は阿泉龍二だろうという声もあがっているようで、その期待に応えるためなのか、祭りの後の大宴会を、阿泉家で行うという。そのため、母の波月(はづき)は準備に大忙しで、当然、母の手一つでこなせるものではないから、町内会の婦人らが集まり、宴会のための料理を振舞う。

 ここで問われるのは、阿泉家がいかにこの宴会を仕切るということらしいのだが、母にとっては初めてのことであったし、そこに不安を覚えた父の指示なのかはわからぬが、この日は父の姉、妹など、相馬家の人間、親戚一同が阿泉家にやって来て、母の波月を支援するのだという。それで朝から、阿泉家には大勢の大人たちが集まり、忙しなく働いているのであった。
 
 六夏(りくか)はといえば、母の手伝いをするわけでもなく、ひとり自分の部屋に籠っていた。ベッドに横たわり、クラスメイトが献上してくれた漫画や雑誌を流し読みしながら、祭りという行事が、早く過ぎ去ることを切に願っていた。それこそ昔は、祖父と祖母の手に引かれ、御宿海岸沿いを練り歩くお神輿について行き、祭囃子に合わせて踊ったり、歓声をあげていたりしたものだが、小学校六年生にもなれば、祭りを心待ちにするという年齢でもなかったし、何よりも、父の張り切り具合が鼻についた。

 祖父を追いやり、阿泉家の支配者となった父。

 そしてその家という枠組みを超えて、町の権力者たろうとする父の企みが垣間見え、六夏の父に対する嫌悪と反発は、いや増しに強まっていくのであった。
 御宿町の祭りを取り仕切るというのは、これまでの阿泉家にはないことであった。少なくとも祖父の代にはなかった。祖父はどちらかというと、非社交的な性格で、こんな田舎町においても、人付き合いがうまくできない不器用なタイプであった。それだから、古くからいる御宿町の人間は、阿泉家に来た新しい血である龍二の社交性を大いに歓迎するのであった。
 
 突然、六夏の名前を呼ぶ、母の声が聞こえたかと思うと、同時に階段を上がってくる音がした。
 部屋ドアが母の手によって開けられた時、六夏は思わず睨みつけるようにして振り返る。

「何よ。そんな怖い顔して」
割烹着姿の母が立っていた。

「主一(かずいち)伯父さんが来ているわよ。挨拶くらいしなさい」
 
 そう母に告げられ、六夏は戸惑った。主一伯父さん? 伯父さんとは父、龍二の兄である。六夏が幼稚園児の時以来、まったく会っていなかったのではないだろうか。その主一伯父さんまでもが、この祭りの日に限って、外房の田舎町である阿泉家にやって来たというのか。

「まだ着替えてない」と六夏は不貞腐れた声で返す。

「早くしなさい。お母さん忙しいから、あまりかまってあげられないから、睦斗(むつと)と一緒に自分たちでちゃんと挨拶するのよ」

 母はそう言い残して、また一階へと降りて行った。

「伯父さんがいるらしいから下に行くよ」と六夏はドア越しに睦斗に声をかけたのだが、睦斗は先に行ってくれと突き返す。

 仕方なく六夏は一人で下に降り、リビングに顔を出した。父の兄である主一伯父さんがソファに深々と座っていた。親戚の女の人らの声もあったが、台所で何かを作っているようだ。揚げ物の油の匂いが、家中に籠っていた。主一伯父さんは六夏に気付くと、「おお、六夏かい。随分と大きくなったなあ」と目を丸くする。六夏は愛想笑いを返し、「こんにちは」と相手に聴こえるか聴こえないかくらいの小さな声で会釈をする。

「いつぶりかな。あんな小さかった子が、大きくなったものだな。お母さんの身長抜かしたんじゃないのか?」

 伯父さんはニコニコしながら立ち上がる。すると、台所の奥にいた親戚の女の人らが「あれ、六夏ちゃんいるの?」と言いながら現れる。父の姉である百合子伯母さんと、妹の美津子叔母さんであった。二人は、正月や盆などにもよく来るので、顔馴染みではある。

「六夏ちゃん、大きくなったわよね」と美津子叔母さんが、主一伯父さんに声を掛ける。主一伯父さんは腕組みをしながら、「うんうん」と感慨深げに頷く。

「波月さんに似て、別嬪さんでしょう?」と百合子伯母さん。

「だなあ。でも、六夏ちゃんはどちらかというと、お父さん似じゃないか? ほら、目のあたりが龍二そっくりじゃないか」

 龍二そっくりと言われ、六夏は思わず眉間に皺を寄せた。

「おお、おお、そのちょっと目を細めた感じも龍二のように見えるなあ」
 
 すると二階から足音があり、六夏の背後から睦斗がひょっこりと顔を出す。

「あれ、今度は男前が来たよ」

「ほんとだ、睦斗かい。睦斗もえらい立派になったなあ」

 主一伯父さんは睦斗の傍にやって来て、尊いものを見る眼差しで話し掛ける。
 台所の奥では、母が忙しなく動きまわり、大変そうにしている。母はなぜかこの輪の中に入って来ない。入る気がないのか、入れないのかはわからない。少しくらい交って、言葉を掛けてくれてもよさそうなものなのに。祖父の文斗も勿論ここにはいない。阿泉家のリビングを相馬家の親戚たちが占めている。その光景は、六夏には言いようのない違和感を覚えさせた。
 
 夜にもなると、神輿担ぎを終えた半被姿の男衆らが阿泉家に集まりだし、家の前を多くの人間が出入りするようになる。庭先には、花見などで見かけるような巨大なブルーシートが敷かれ、いくつもの座卓テーブルと座布団がセットされている。町内会の婦人らがそのテーブルに、グラスや栓抜きなどを手際よく並べていく。誰が持ちこんだのかはわからないが、キャンプ用のバーベキューコンロでは伊勢海老やら栄螺などが焼かれていて、磯の香りと醤油が焦げていく香ばしい匂いが、辺りに漂い始めていた。 
 
 町内会の男衆が、足袋を履いたままの足で次々とブルーシートにあがり、腰を落としてテーブルを囲んでいく。その中でも若い者らが、運ばれてくる瓶ビールのケースから率先して瓶を抜き出し、座卓ごとにまとまった本数で配置していく。胡坐をかいて座る年配の者らは、各々がビールとグラスを片手に取り、向き合っている者同士でビールを注ぎ合う。

 すべての男らにビールが行き渡ると、宴席の中央で仁王立ちしていた父が、乾杯の音頭をとり宴会が始まった。一斉に歓声と拍手が沸き起こった。父は立ったまま、グラスのビールを一気に喉に流し込んでいた。
「うまい!」と父が唸ると、周囲から「よくやった」「お疲れ」という掛け声と、笑い声があがった。父の満面の笑みは、見ているだけで虫唾が走ると六夏は思い、目を逸らす。

 阿泉家の母屋から、婦人らによって次々と大皿の料理が運ばれてくる。刺身の盛り合わせ、唐揚げ、天ぷら、煮物、漬物、焼きそば、握り飯と、町内会の婦人らが朝から準備し作ったさまざまな料理が、座卓テーブルの上を彩る。タイミングよく焼き上がった伊勢海老や栄螺なども、別の婦人グループの手によって振る舞われる。
 
 母の波月は、庭先と母屋を忙しなく行き来していた。その姿を見て、六夏は少しだけ心苦しい気持ちになるのだが、どうせ足手纏いになるだけだからと、静観するほかなかった。小さい子供らだけが囲うテーブルもあるのだが、六夏はそこに交るのも嫌だった。六夏は庭の隅で、自分の背丈ほどある翡翠の庭石にもたれかかり、存在を消すようにして突っ立っているだけであった。こんな時、弟の睦斗がいれば、彼の遊び相手をすることでなんとか場を取り繕えるものだったが、姉を避けようとする今の睦斗とはなんとなしに距離ができてしまい、気軽に話し掛けることができずにいた。

 そんな睦斗はといえば、いつの間にか大人の男衆らに交じって、お喋りをしながら唐揚げを頬張っている。睦斗がいたのは、比較的若い男衆が囲んでいる席で、サーフショップの店長さんなど、いつものサーフィン仲間たちである。御宿祭りの参加者は年輩者が多かったので、サーフィンをやるような若い大人たちも参加していることが六夏には意外に思えたが、それよりも睦斗がその地元の大人たちに違和感なく溶け込んでいる姿を見て、ますます自分との距離が遠のいていくような気がしてならなかった。

 立っていただけの六夏は、後ろに組んだ手の指で、ガリガリと翡翠の庭石を削るようにして引っ掻き、唇を噛みしめながら、ただ時間が過ぎていくのを待った。時間というものが誰かに止められてしまったのではないかと思える程、六夏にとっては息が詰まるような状況であった。
 
 庭先のあちらこちらで、陽気な会話が交わされている。神輿担ぎという大役を終えた男らは、酒も入り、興奮気味な口調である。その輪の中心に、胡坐をかいた父の姿があった。父は酒で顔を真っ赤にし、終始ご機嫌な様子であった。その父の隣には、御宿町の現町内会長がいて、扇子を仰ぎながら、時折父の背中をポンと叩いては、口を大きく開けて笑っていた。

 六夏には、とてもここが、自分の家だとは思えなかった。自分の存在は、ここにいる者らからすれば透明そのものであっただろうが、六夏に纏いつく空気の重さはとても耐えられたものではない。
 父も母も誰も、自分のことに気を留める様子がないので、いっそうのこと六夏は祖父のいる離れの小屋に行き、雲隠れしようと思った。しかし、ちょうど六夏がその場を去ろうとしたその時、酒を注ぎ回っていた美津子叔母さんと目が合ってしまい、手招きされる。六夏が動けずに迷っていると、美津子叔母さんの方から小走りでやって来るのであった。

「六夏ちゃんもこっちに来なさい。たまにしか会えないのだから、話をしましょうよ」

 主一伯父さんを始め、相馬家の人間が陣取る輪の中に、六夏は連れてこられた。主一伯父さんの甲高い笑い声が響いていた。普段から調子のよい感じの主一伯父さんの酔った時の笑い声は、どこか人を不快にさせるものがある。
 阿泉家の人間である母がまだ仕事をしているというのに、相馬家の人間は暢気なものであった。客人だからということはあるにせよ、どこか違和感を禁じ得ない。そう思いながら六夏が強張った面持ちでやってくると、主一伯父さんが真っ赤にした顔で、「六夏ちゃんやっと来たか」、と皺で刻まれた目元を緩ませて笑う。

「ほら、座れ」そう促され、六夏は靴を脱いでブルーシートに跨った。主一伯父さんの隣はなんとなく嫌だったので、百合子伯母さんと美津子叔母さんのいる方へと意図的に座った。普段しない正座で、肩を狭めるようにして座った。

「そんな畏まらなくていいのに」と百合子伯母さんが六夏の姿を見て笑う。
 
 親戚の者らの会話は他愛もないものばかりであった。六夏はずっと彼らの話を黙って聞いていたが、話を振られるたびに愛想笑いを浮かべ、その場をしのいだ。朝から休むことなく動き回っている母のことが、ずっと気がかりであった。

 しばらくすると、その輪の中に、少し足をふらつかせた父がやってきた。

「おお、親子が揃った」と主一伯父さんが嬉しそうな声をあげる。

「相馬家の主役が来たよ」

 美津子叔母さんはなぜか目を輝かせながら父の方を見る。

「そんなんじゃないよ」と父は謙虚な言葉を口にするも、いつもの堂々とした態度で腰を下ろす。

「六夏ちゃん、見ないうちに随分と大きくなったじゃないか」と主一伯父さんが父の肩に手を置く。

「百合子がさ、波月さんに似たのだろうって言うけどもさ、俺はお前の方に似たんじゃないかと思うんだけどさ」

 主一伯父さんが、父の方へと目配せする。すると父は、「そりゃそうだろう。どう考えても俺に似たのよ」などと言い、口を大きく開けて笑った。他の者らも一斉に笑う。何が面白いのか。

「俺に似ている」父のその一言に、六夏の顔はとたんに引き攣った。

「それにしても、お前、偉くなったもんだよなあ」

 主一伯父さんがおもむろに話題を変える。

「そうそう雑誌見たよ、凄いじゃない」

 百合子伯母さんや美津子叔母さんが、互いの顔を見ながら頷き合っている。雑誌? 何のことだと六夏は思う。
 
 すると美津子叔母さんが、傍らにあったバッグから一冊の雑誌を手に取り出し、「お前がこんな立派な経済紙に載るなんてね」と皆の前で広げた。「何それ」と気になった六夏が訊ねると、美津子叔母さんは、「ほら、六夏ちゃんも見てみて」と言い、雑誌を手渡してくれた。
 
 美津子叔母さんが広げたページには、驚いたことに派手な柄のネクタイを締め、高級そうなスーツを纏っている父、龍二の全身写真が大々的に掲載されていた。

「え、お父さんじゃん?」

 六夏が驚いた声をあげると、百合子伯母さんが、「そうだよ、あなたのお父さん、千葉県の経済紙に取り上げられたのよ」と興奮気味に説明する。

 表紙には『千葉経済季報』とある。父の記事に目を通すと、「御宿の夢、再び――相馬龍二社長の挑戦」とある。どうやら父のインタビューが掲載されているようだ。
 記事には、八十年代後半のバブル絶頂期、全国から多くの観光客を集めていた臨海型高級リゾート地「御宿」の栄華を取り戻すために、相馬龍二が代表取締役を務める株式会社シーホースホテル&リゾートが、主に中国やグローバルサウスの新興国の富裕層向けのホテルや、総合アミューズメントパークを建設、ゴルフ場の開拓などを進めているとある。この事業による千葉商業圏の経済効果がどれくらいのものか、見たこともない桁の数字やグラフによる説明がある。父の語りも、どこかの経済学者のような口ぶりだ。

アメリカのサブプライムローン問題をきっかけに、これまでのグローバリゼーションは綻びを見せ始め、金融市場は混乱し、不透明感が高まっています。私は地元御宿が辿って来た歴史に倣い、むしろラテンアメリカのような国々との交流を促進させたい。ラテンアメリカやアフリカ、あるいは東南アジアといった国々は、経済的にはまだまだのように位置づけられていますが、その市場規模はとてつもなく大きいものを秘めている。もちろん、中国の存在は無視することはできません。むしろわれわれにとっての最大の顧客は中国になるとも思っています。


 数ページに渡って書かれた記事の最後には、父の言葉と共に次のような形で締め括られていた。

「御宿の新しい歴史を作りたい。私の夢は、四〇〇年前に御宿海岸に遭難したスペイン帝国のドン・ロドリコ総督と、わが国の英雄、徳川家康公が実現させた日墨交易の夢を引き継ぎ、千葉とラテン世界の一大経済圏を作ること――」御宿とメキシコの交流の歴史に触れながら、相馬龍二はそう口にする。一見、荒唐無稽なもののように聴こえてしまうが、もしかしたらこの男はそれすらも本気で実現してしまうのかもしれない。この男の野心と、これからの動向に目が離せない。

『千葉経済季報』2007年10月号~特集「千葉から世界へ、新しい時代の創造者たち」~

 
 六夏はまず、その雑誌に書かれてある事実に驚いた。父がこのような仕事をし、世間から注目を浴びている人物であるなどとは露にも思っていなかったからだ。いつの間に?というのが、六夏の正直な思いであった。会社を作ったというのは聞いていた。しかし、ここに書かれている内容は、六夏が想像していた範囲をはるかに超えている。そして、父が阿泉家としてではなく、相馬家の姓を名乗っていることが、何よりも気になった。

「どうだい六夏ちゃん、あなたのお父さんは凄い人なのよ」

 百合子伯母さんが、雑誌を手にしたまま口をぽかんとさせている六夏の横顔を覗く。

「よせやい、姉さん」と父がにやついた表情で声を発する。

「新しい歴史を作ってくれ、龍二。お前は相馬家の誇りだ」

 主一伯父さんはそう言いながら、一升瓶を傾け、父が手にしていたグラスに酒を注いだ。

「御宿には歴史がない。だからこの俺が歴史を作る」

 父はそう言わんばかりに鼻の穴を大きく広げていた。ドポドポドポという音を立てながら酒が流れ出ていくのを、六夏はまじまじと見つめていた。すると、父は何を思ったか、酒がなみなみ注がれたそのグラスを、唐突に六夏に向けて差し出すのであった。

「六夏、お前も飲んでみるか?」
 
 父はそう言って、黄ばんだ息を吐きながら六夏の方を見てくる。

「何、バカなこと言っているのよ」と百合子伯母さんが眉を顰めながら苦笑する。

 突き付けられたグラス越しに、父の目が見えた。父の目をこんな間近で見たことは、もしかしたら赤子の時以来かもしれない。

「お前もこっち側の人間になれ」

 そう言わんばかりの目で、父は鋭い視線を送る。その眼光は、六夏の知っている父のものではなかった。

「相手にしなくていいよ、六夏ちゃん。十二歳の子供に酒を飲ませるなんて頭おかしくなったか」
 
 百合子伯母さんが強い口調で言うので、周囲にどことなく緊張が走った。

「冗談に決まっているだろう。なあ、龍二」
主一伯父さんも場の空気を変えようと口を挟む。

 父の視線はまだそこにあった。力の漲った巨大な目が、六夏を捉えて離さない。

「飲めるよな? 俺の酒が飲めるよな。いいか、これは俺の血だ」

 空耳か、心の声か。父がそう訴えかけているように思えた。六夏は文字通り蛇に睨まれている格好になり、身動き一つとれないばかりか、声を発することもできない。

「お父さん、バカなこと言わないで」

 そう言って振り払うだけでよいのに、それをやってしまえば、父との関係性が永遠に断絶されてしまうような恐怖があった。

「この酒は俺の血だ」

 また、声が聞こえた。父が言っているわけではない。また、ドポドポドポという酒を注ぐ音が聞こえた。その音が、六夏の体内に注がれていく血の音に思えてしまう。血管が膨らみ、自分の血が次第に濃くなっていく気がした。このままでは破裂してしまう。体中の血液が決壊し、六夏という輪郭を消失させようとしているかのようだ。

 すると、父の顔からふっと緊張が消え、「バカヤロウ、冗談だよ、冗談。そんな飲みたそうな顔をするな」と六夏を一喝する。途端に周囲から安堵の溜息がもれ、笑いが起きた。

「いくらなんでもまだ早いわ」と主一伯父さんが冗談でよかったと胸を撫でおろす。

「これは俺が飲む酒だ」

 父が、手にしていた酒を自分の口に運ぼうとした時、六夏は咄嗟に手を伸ばしていた。父の手にあったグラスをふんだくるようにして奪い取り、周囲の人間が「あ」という声をあげるよりも先に、自らそれを口に近付け、流し込むようにして飲むのであった。

 六夏の口の中に、これまで味わったことのない苦さと甘さと濃度の高い何かが広がった。それが喉元を通り、胃に辿り着いた頃には、体内から別のエネルギーが沸いてくるような熱さを感じ、体中の細胞という細胞が総出になって反応し、その熱いものを外に追い出そうと、必死に呼吸の速度を上げているのを感じる。子供の身体という器では、その熱量にとても耐え切れないのか、脳が揺さぶられるような感覚を覚え、自分の体が違う何かに支配されてしまったような嫌悪感が、どっとこみ上げてくる。

「ちょっと、何しているの!」という伯母さんらの叫ぶ声と、「こいつ本当に飲みやがった」というこれまで聞いたこともない、父の愉快そうな笑い声が交じり合い、幾つもの星が身を寄せ合っている御宿の夜空に響き渡った。


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