宗教や信仰についての雑記 #296
◯「聞く」ということ
仏教には「聞法」という言葉があるそうです。
これは、、仏教の修行において重要な三つの要素である聞修思の内の一つで、この聞修思とは、
聞(もん):仏教の教えを聞くこと
修(しゅ):聞いた教えを実践すること
思(し):聞いた教えについて深く考えること
を意味するとのことです。
聞法は、この三つの要素の最初の段階であり、仏陀の教えや経典を聞くことによって、正しい理解を得ることを目指すことのようです。
「聞く」ということは知識や新しい情報を得るための最も基本的な方法ですが、それと同時に、他者の意見や感情を聞くことにより、自分とは異なる視点や価値観に触れるという意味もあると思います。それは単に情報を交換するだけでなく、相手の感情を理解し共感することでもあります。
「聞く」ということは、他者の存在を肯定して受け入れる姿勢でもあるように思えます。
ところで、「聞くこと」の対象は無論「音」なのですが、仏教にはまた、「音を観る」ということもあるようです。
これは皆さんご存知の「観音菩薩」のことです。
この名前の意味は、世の中のすべての生きとし生けるものが抱える苦しみ、悩み、願いといった「音」を、全て聴き取っているということだそうです。この場合の「観る」とは、ただ聴くだけでなく、その苦しみに深く共感し、慈悲の心を持って見守るという意味を表し、観音菩薩とは、その「音」を聞き、苦しんでいる人々を救済しようとする存在とのことです。
相手の話を最後まで聞き、意見を尊重することはその人の尊厳を尊重することでもあります。
でも今の世では、誰もが仕事や家事などで時間に追われて、人の話を聞いている余裕がなかなか持てません。そのため「誰も私の話を聞いてくれない」「私は誰からも軽んじられている」と思う人は少なくないでしょう。
ですからそんな世の中では、仏教(宗教)の難しい教義を聞くことよりも、自分の話を聴いて(観て)くれる何が大いなる存在がいて、自分の苦しみに深く共感し見守ってくれている、そんな感覚を持つことのほうが、心の平安には有効であるように思います。
もしかしたらそのことが、忙しい中でもなお人の話を聴いてあげる、そんな姿勢へと繋がるかもしれません。