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宗教や信仰についての雑記 #37

◯苦しみとは

前回、キリスト教の伝道師となるためのトレーニング中の方が書かれたブログを読んで、苦しみとは何なのでしょう、というところまで書きました。


仏教では人生は苦しみの連続であるとし、その苦しみからの解脱を主眼としています。
しかし生物学的には、痛みや苦しみは危険や不具合を知らせるための警告であって、それがあるからこそ人間は厳しい環境の中でも生き残れたのです。

もし、生まれてからずっと苦しみが全くないまま育った人がいたとしたら、その人はどんな人間になっていたでしょう。
おそらく、他者の苦しみに全く共感できない歪んだ人格になっていたと思います。

仏教の言う解脱に意味や価値があるのはそれ以前に苦しみがあるからであり、苦しみがなければ解脱もありません。そういう意味では苦しみと解脱とは表裏一体のような気もします。
無論だからといって、意図的に苦しみを求めるのは間違いなのでしょう。罪がなければ赦しもないからといって、意図的に罪を犯すのが間違いなのと同じように。

ここまで書いて、私の母が生前「人間には二種類あるようだ」と言っていたのを思い出しました。
苦しみに遭ったとき、それをバネにして人間性を高めることができる人と、その苦しみに耐えきれず、屈折した性格になってしまう人との、二種類がいるみたいだと言っていました。
私はおそらく後者の方です。

苦しみとは救いと表裏一体のもの。でもだからといって放置していいものでもなく、また、それから逃げてばかりいていいものでもない。
そして、それに耐えてどれだけ背負えるか、その力量も人それぞれ。苦しみとはそういったもののように思います。

私はこのブログに書かれているような宗教体験をしたことはありません。
私にも仕事や病気や人間関係など、私なりの苦しみはあるのですが、そんな苦しみは全然大したことではないということなのでしょう。
ですから心のどこかで、そんな強烈な宗教体験をした方への羨望の念を覚えてしまうのです。

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