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宗教や信仰についての雑記 #28

◯逆転する視線

自分の弱さを痛感することがよくあります。
身体の弱さだけでなく、心の弱さを思い知らされることが絶えません。
些細なことでも、すぐにイライラしたりクヨクヨしたりして、後になって思い返せば大したことでもなかったことに気づき、なぜあんなにイライラしたりクヨクヨしたりしたのかと、恥ずかしいやら情けないやらで、気分が沈み込んでしまいます。

そんなとき、先日の投稿(#20)で、パウロの言葉や「願い」のことを書いて、ふと感じたことがあります。それは、
「この世界には『願い』が溢れている」
そして、
「弱さは哀しみを生み、哀しみは願いを生み、願いは力を生む」
ということです。
この場合の「願い」とは、個々人が抱いている世俗的な願望のことではなく、我々の苦しみや哀しみを取り除いてあげたいという、遍在する「実在」からの「願い」のことです。
無論これは直感的に感じたことで、確たる根拠はありません。また、この「願い」から生まれた「力」が、目に見える形となって現れることは非常に稀なことのようにも思えます。
それでもなお、その「願い」の存在を信じたいのです。

以前、信仰を得た人に「信仰を得ることで何か変わりましたか」と訊いたところ、「すべてが受け身になった」と答えた、という話を聞きました。
自分が何かを行なうのではなく、そう行なうように背中を押された、あるいは導かれた、そんな感覚になるのだそうです。

自分が空を見上げているのではなく、空から見守られている。
人生の意味を問うのではなく、人生から問われている。
神仏に願をかけるのではなく、神仏から願われている。

そんな様々な逆転する視線の内に、遍在する「実在」を仄かに感じるのです。
私が持て余している己の弱さの中にも、そんな「願い」が浸透しているのでしょう。

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