小説|青い目と月の湖 3
川で遮られている南側の森には、誰もが入っていけた。
それでも、途中で二つに分かれた道を南に進む者は滅多にない。
ごく偶に、木を切りに来た職人が通るくらいだ。
それも、もし仕事に疲れて喉が渇いているところに、彼の家を偶然見かけたとしても、それを訪ねてお茶を一杯ご馳走してもらおうなどと言う者は一人もいないだろう。
何故なら彼クロードは、通常持ち得ない能力を持った、普通ではない特異な人間だからだ。
森の中で秘やかに暮らす魔術師クロードと、気軽に接し話しを交わせる者は、少なくともクロードの属する村、地域には、ハンスという少年ただ一人だけだった。
背後のドアがノックされた。
クロードは広い窓に向けて置いた机の前に立っていた。
机の上には葡萄の蔓で編んだ籠に山盛りの赤いイチイの実があった。
籠の手前に二つの器を置いて、クロードは中の種子と周りの赤い仮種皮とを分けて、それぞれ別の器に入れていった。
クロードは振り向かず「はい」と、ノックに応えた。
ドアは開かれ、閉められた。
誰が来たかは判っていた。
何日か置きに村から食糧を運んできてくれるハンス以外の人間は、滅多にこの家にはやって来ないし、足音も確かに聴き慣れたハンスのものだった。
しかし、一つだけ勝手が違った。
いつもならハンスは元気よく挨拶をしながらドアを開ける。
何か悪戯を仕掛ける気ならばノックなどしない。
今日はそのどちらにも当てはまらなかった。
クロードは振り向いた。
ハンスは重そうな籐籠を、部屋の中央にあるテーブルに無言で置いているところだった。
「どうした?」
クロードは言った。
ハンスは俯き加減だった顔をゆっくりと上げた。
虚ろだった表情が、非難がましい表情に変化した。
細めたその目の行方が、自分の手にあることを知った。
クロードは自分の手を見つめた。
罪深い赤色がまとわり付いている。
「自分から進んで不気味なことしないでよ」
「ただの木の実じゃないか」
クロードは不満げに言い、赤い指先をぺろぺろと舐めた。
美味とは言わないが、甘かった。
ハンスから「子供みたい」と非難されるのを待ったが、ハンスは言わず、むっつりと椅子に座った。
クロードは仕方なく、机の上に用意していた水を張った洗面器で手を洗い、その横に置いていたタオルで手を拭いた。
振り返ると、ハンスは頬杖をついてテーブルの上を見つめていた。
クロードは彼の向かいに腰を降ろし、籐籠の中を覗いた。
大人の手の平大の丸いパンが三つ、紙に包まれている。
その下にジャガイモが沢山と、ジャムらしき瓶が二つ。
ブルーベリーのジャムが一昨日無くなったばかりだったので丁度良かったと思いながら、クロードは視線をハンスに戻した。
依然、テーブルを見つめていた。
「どうしたんだ?」
言いながら、何となく予想はついてきた。
ハンスは顔を上げたが、言いにくそうに口元がむずむずしただけだったので、クロードは自分から言った。
「仕事か?」
ハンスの目が一瞬大きく開かれ、諦めたように小さくなった。
そして頷く。
「そうか。今回はなかなか期間が開いたな。前の仕事は春だった」
「うん。でも判らないよ。もしかしたら、行かなくていいかも知れない」
「それなら、それに越したことは無いが」
クロードはパンを紙ごと持って立ち上がると、奥のキッチンへ持って行った。
一つをまな板の上に置き、パン切り包丁で一センチくらいの厚さに切っていく。
長い黒髪が顔にかかって邪魔になった。
クロードは辺りを見渡し、食器棚の取っ手に引っ掛けていた麻紐を見つけると、それで髪を一つに縛った。
クロードは村から依頼があればいつでも仕事に出かける。
ハンスが定期的に運んでくる食糧はその報酬だ。
仕事が例え年に一度でも、その報酬に変わりはなかった。
そんな習慣のある地域はここだけでなない。
大抵の古い村には一人くらいの術師がいるものだ。
その上に「魔」が付こうと、もっと古い「魔法使い」という呼び方をされようと、その仕事に大差はない。
彼らは何かに、主には人に取り付いた魔物を払い除けるために人々に必要とされていた。
クロードは二年ほど前にその父親の死と関わり、ハンスと知り合った。
それから半年ほどでハンスが食糧を運ぶ職に就いたのだが、それ以前は役人や、雇われた村人や、罪を犯した者が罰として、嫌々運んできてくれていた。
一般人はすべからく魔術師を怖れるべきものであるらしい。
クロードは承知して、嫌々運ばれたものでもありがたく受け取っていたが、やはりハンスのように好意的な人間が持って来てくれるのとそれとでは、感じられるありがたさにも雲泥の違いがあった。
この食料配給の仕事はハンスにとってもいい話だった。
家具職人だった父親をなくして経済的に苦しくなってきていた当時、村長がこの話しをハンスに持ちかけたのだ。
体力さえあれば、子供でも出来る仕事だった。
クロードは、スライスしたパンにバターと砂糖を混ぜたものを塗って、皿に並べた。
しかし、今回みたいなのは初めてだな。
仕事があるにしても、今みたいにハンスが落ち込むのはどうしてだ。
皿を部屋に運んだ。
テーブルに皿を置き、代わりに籐籠を抱えて再びキッチンに入る。
ジャガイモ用の木箱から残っていた二つを取り上げ、そこに新しいジャガイモを入れた。
芽が出てきていた古いやつをその上に乗せ、ジャムは作業台の上に置いた。
部屋に戻ると玄関近くに籐籠を置いて、机上の洗面器で泥のついた手を洗い、席に着いた。
ハンスは目の前に盛られた簡易おやつを眺めていた。
不味そうだと思っているのか、他に考える所があるのか、クロードはハンスの目をじっと見た。
「知ってる人間なんだな」
「え?」
「友達の父親か何かなんだな」
ハンスは複雑な表情でクロードを睨んだ。
ハンス以外の村人にこんな言い方をすれば、青くなって震えているところだろう。
何らかの魔力を持って心の中を見透かしたと思って。
しかし、こんなのは単なる勘だった。
仕事の相手が自分の知り合いだからハンスは気落ちしている。
落ち込みようから察して、単なる知り合いではない。
家族や友人よりも遠く、ただ知っているだけと言うよりは近い存在。
母親ではない。
母親ならもう少し取り乱した雰囲気になる筈だ。
ハンスの中にはある種の覚悟があるように見えた。
ハンスは父親を亡くしている。
その部分に由来する覚悟だ。
誰にでも出来る勘ぐりだが、それを私がやれば、違うものになってしまう。
ハンスは言った。
「何でお父さんだって判るの?」
「何となく」
「ふうん」
ハンスはスライス・シュガー・パンを一つ摘まんで噛り付いた。
硬いと文句を言いながら、二枚目を食べる。
「ここ、寒いよ」
「そうか?」
「ストーブ、そろそろ火を入れたら?」
「そんなに寒いとは思ってなかったよ」
「慣れちゃってるんだね、森の気候に。日が当たらないから、歩いてて寒かったんだよ」
「そうか。悪かった。今度は火を入れておこう」
「火ついてたら、このパンだって焼いて食べられたのに」
「そうだな」
「今、パッて出来ないの?魔法使いなんだから」
「出来ないなあ」
「つけようよ」
「今つけたって、暖かくなるのに一時間かかる」
「油を使うストーブ買ったら?薪ストーブより使いやすいよ」
「貧乏なんだ。お前がプレゼントしてくれるなら、喜んで受け取るけど」
そう言って自分もパンを手に取り、一口食べた。
ハンスはやっと笑顔を浮かべた。
「何言ってんの?母子家庭の一人息子に向かって。僕、そろそろ帰るよ。母さんの昼ご飯残したら怒られるから、お菓子そんなに食べられないし」
「そうか」
ハンスはテーブルに手をついて立ち上がった。
家の外でバサバサと鳥の羽ばたく音がした。
クロードとハンスは同時に顔を窓に向けた。
広い窓でなく、小さな方だ。
上げ下げ窓の一枚を開けば、ハンスがちょうど通り抜けられるくらいの大きさだった。
クロードは席を立ち、窓を上に開けた。
窓の外側には鳥が休めるように板を取り付けてある。
そこで鳩がクルクルと喉を鳴らしている。
鳩の足にはセロファンに包んで折りたたまれた紙がくくり付けられていた。
クロードはそれを外すと、窓枠の右横、内壁に取り付けた鳩の餌入れから、豆や粟をひとにぎり取って鳩の前に撒き、窓を閉めた。
鳩はガラスの向こうで餌を突き始めた。
ハンスから食い入るように見つめられているのを感じがなら、クロードは手紙を開いた。
鳩は役場の屋上で飼われている伝書鳩だ。
往復鳩で誰が訓練したのかクロードは知らないが、役場で放された鳩は術師用に村が用意しているこの家まで飛んでくると、餌をもらった後に自分で役場に帰っていく。
クロードに用がある時、村人はこの鳩を利用する。
手紙を読むと、クロードはハンスに顔を向けた。
「ミセス・ジョーンズが呼んでいるそうだ」
ハンスは目を伏せた。
クロードは、正直なところ行きたくはなかった。
行っても無駄だろうと思えたからだ。
ハンスもきっと、そう思っているのだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?