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小説|腐った祝祭 第一章 12

 翌日にはナオミを高原に誘った。
 皇太子の所有する土地で、連絡を取ると快く許可を出してくれた。
 土地の管理人が住んでいる家で白馬を借りて、ナオミを自分の前に座らせる。
 もちろん普段は誰も入ってこない土地だ。四千ヘクタールほどの広いカルスト台地で、遊歩道は整備されている。土地のあちこちに窪地ができているので、そこを外れないように注意しなければならない。台地の下には未確認の鍾乳洞も多くあった。素人が下手に入り込めば、洞窟への割れ目に落ちる可能性もある。
 本国では馬を間近で見たこともなかったサトルだが、長い海外赴任の間に乗馬はかなりの腕前になっていた。
 白馬はサトルの言うことをよく聞いた。
 二人で道をすすんでゆく。
 湖と同じように、誰も邪魔するものはなかった。
「思ったより紅葉が進んでいないな」
 サトルにはそれだけが不満だった。
 普通なら草原が紅葉している時期なのだが、青草の方が多かった。
「でも綺麗よ。ねえ、岩が沢山転がってるのね」
 ナオミは馬に横座りの状態で、怖がりなのでしっかりとサトルの背中に手を回して体を掴まえている。
 今回はシックな紫のドレスを着ていた。
 ナオミの専属になったセアラは、ナオミのために化粧と髪のセットの仕方を一日で覚えた。
 ナオミも女中の厚意を無にはできないので、大人しくされるがままになっていたらしい。
 ここに来るまでに少し、サトルに対しての愚痴をこぼしていたが、今ではすっかり景色に見惚れているようだった。
「転がってるんじゃないと思うよ、ここ全体がカルストだから。あれはラピエって言うんだ。つまり石灰岩だね。そういう地形なんだよ」
「ふうん。ねえ、ほら、向こうの方を見て。なんだか羊が沢山いるみたいだわ」
「あれは羊だよ」
「え、そうなの?」
「嘘」
 サトルは軽く胸を叩かれる。
「この下に洞窟があるって言うのは本当なんでしょう?」
「うん。でもまだ調査途中で、皇太子も見学したことがないって言っていたよ」
「そうなの。この子が王子様の馬だって言うのは?」
「本当だよ」
「王子様の白馬ですって。まるでおとぎの国ね」
「すまない」
「なに?」
「せっかく舞台は揃ってるのに、肝心の私は単なる役人に過ぎないからね」
「いいえ。あなたは……」
 ナオミはサトルを見上げ、言いかけてやめてしまった。
「なんだい?気持ち悪いじゃないか。最後まで言ってくれなきゃ」
「ううん。言わないわ」
「駄目だよ。言いなさい」
「言わないわ。だって、きっと調子に乗るんだから」
 サトルは一つ唸って、馬に駆け足をさせた。
「やめてよ、もう」
 サトルは笑ってすぐにやめる。
 ナオミがきつくしがみ付いてくるのは、それはそれで良かったのだが。
「じゃあ言ってくれよ」
「だから……、あなたは、私にとっては王子様みたいよ」
 サトルはナオミの髪にキスをした。
「私にとって君は女王だよ」


 残念な事に、その翌日は地元企業との懇談会という仕事が入っていた。
 午後からはルル文化庁主催の定期交流会議に呼ばれていた。各国大使が招待される規模の大きな会議で、文化委員長でもあるオルバラ伯爵も出席した。
 オルバラは休憩時間になると、わざわざ自らサトルのもとにやって来た。
 サトルは皇太子に接する時よりも慇懃な挨拶をする。
「大使はあれだそうだね」
「あれ、と言われると?」
 思い当たるものが幾つかあるので、用心して聞き返す。
「そろそろ任期が切れるかもしれないそうだね」
 それですか。
「ええ。その件については、今のところ本国から何の音沙汰もありません。宙に浮いたような落ち着かない気分でいます」
「そうか。君はどうなんだね。この国は気に入ってるかい?」
「もちろんです、オルバラ伯。ルル王国ほど良い国はありません」
 以前の赴任地は内戦の絶えない国で本当に忙しかった。
 大使などになるものではないと深刻に悩んだものだ。
 しかし、ここはどうだろう。
 ナオミの言う「おとぎの国」そのものだ。
 他国から時代錯誤な国だと揶揄されるほど保守的ではあるが、ここほど平和な国もないだろう。
 千年前から変わらぬ国境の中で、二百年の間、多くのルル国民は穏やかに暮らしている。
「そうかい。うん。それを聞いて安心したよ」
 伯爵との会話は、そんな風に短く終了した。
 会議の後の夕食会にも出席し、夜には別件のパーティーに出なければならなかった。
 それは小規模のもので、ナオミを連れて行くほどのパーティーではなかった。

 十時頃に急いで帰宅すると、ナオミに驚かされる。
 彼女は監視小屋で警備員とチェスをしていたのだ。
 恐縮顔のリックを脇に従え、サトルは小さな建物のドアから中を覗く。
 小さなテーブルの前でナオミは顔を上げ、向かいに座っていた警備員は慌てて立ち上がり敬礼した。
「何してるの」
「あなたを待ってたのよ」
「どう見ても、チェスを楽しんでいるように見えるよ」
「そう見える?」
 ナオミは笑って、シンプルなチェス盤と駒を片付け始めた。
 警備員はそわそわしながら自分がやりますと言った。
「でもまだ楽しめる段階じゃないのよ。教えてもらっていたの。でも難しくて。駒は可愛いけど」
 ナオミが片付けをやめないので、警備員は焦った顔で「自分がやります」と繰り返す。
 サトルは警備員を助けた。
「ナオミ、邪魔だよ。こっちに出ておいで」
「でも」
 ナオミが警備員に顔を向けると、警備員は出口の方へ手を何度も差し伸べ、「大丈夫です」と「すみません」を繰り返した。
 それでやっとナオミは手を止めた。
「ごめんなさい、散らかしたままで。教えてくれてありがとう」
 警備員はナオミに、と言うよりも、サトルに見られているのがよほど心地悪いようだった。
 主人の恋人とゲームを楽しんでいたことに、今になって違和感を覚えたらしい。
 サトルの方は、この警備員が思っているほどには怒っていなかった。
 仕方ない。
 ナオミも私と同じ自由人らしい。
 サトルは歩いてきたナオミの手をすぐに取った。
 そして、リックとチェスの師匠に尋ねる。
「少し寒いようだけど、ここの暖房器具は私が来る前からのものかな?」
「イエス、サー」
「そうか。もっと性能の良いものに取り替えさせよう。今まで気付かずにすまなかったね」
「と、とんでもないことです。ありがとうございます」
 二人は手をつないで小路を歩いた。
 師匠は馬車が通った後に門を閉め、リックは二人の後ろをいつもより広めの間隔でついてくる。
 ナオミがおやすみの挨拶をすると、リックは最敬礼で応えた。

 迎えたクラウルに暖房機の手配を頼んで、すぐにナオミと化粧室へ入る。
 ウォッシュルームとは別の独立した部屋だ。主には来客が手を洗うのに使う。
 サトルはナオミを後ろから包み込むようにして、一緒に手を洗った。
「どうしたの?」
 見上げるナオミに聞き返す。
「なにが?」
「なにがって、いつもと雰囲気が違う気がするから」
「そう?いつも通りだよ。ただ手を洗ってるだけ。外出先から戻ってくれば、手くらい洗うだろう?」
「そうだけど……そうね、いつもと同じかも。でも、私は一人でも手を洗えるのよ?」
 正面の壁にある鏡を見ると、ナオミは楽しそうに笑っていた。
 サトルはその質問には答えなかった。
 同じ泡の塊の中で、ナオミと自分の手を洗う。
「指が細いね。指輪のサイズに困りそうだ」
「指輪なんかはめないもの」
「そう言えば、ナオミは何の飾りも付けていないね。私としたことが、今気付いたよ」
「私としたことが?」
「……なに?」
 コックをひねり、泡を洗い流す。
 ナオミの指は細かったが、爪の色は健康的だった。
 マニキュアも塗っていないのに、ピンク色で艶がある。
「つまりそれは、そういう事には、いつもならすぐに気付くって事でしょう」
「どうしたの?少し意地悪な顔になってるよ」
 ナオミは鏡に目をやる。
 鏡越しに二人は見つめ合った。
「そう?いつも通りよ」
 サトルは真顔になった。
 水を止めた。
「何か聞いたの?」
「え?」
「ここの誰かに、何か聞いたのかな?」
「……いいえ」
 ナオミは少し不安な表情で、ゆっくりと首を振る。
「本当に?」
「ええ、本当よ。どうしたの?やっぱり、少し変よ」
「そうかな。なんでもないよ。今日は君と一緒にいられなかったせいで、少し変なのかもしれないね」
 ナオミの手をタオルで包み、優しく拭いた。
「水はそれほど冷たくなかったね?」
「ええ」
「だけど今夜はぐっと冷え込んできた。あまり夜に外に出ないようにしないと、風邪をひくよ」
「そうね」
 廊下に出るとセアラが控えていた。
 サトルは言った。
「鏡が少しくもっていたよ」
「申し訳ありません」
 セアラはすぐに化粧室に入っていった。

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