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小説|青い目と月の湖 1

 その城は、湖の中にあった。
 湖は、森の中にあった。
 人の通らない森の、中心にある湖の周りには、獣達さえ近付かなかった。
 獣達は小川や沢で水を飲んだ。
 湖はいつも孤独だった。
 
 
 その城を誰が造ったのかは判らない。
 昔からそれはそこに佇んでいた。
 湖の中にどうやって基礎を作ったのか、城の構造がどうなっているのか、具体的に知る者はなかった。
 ただそれは昔からそこにあった。
 石造りの一つの高い塔をたずさえた非対称な城は、いつも霧を漂わせている湖面から、静かにその姿をそびえ立たせている。
 
 城には一人の少女が住んでいた。
 彼女の名はマリエル。
 マリエルは魔女だった。
 彼女は魔女の子としてこの城で生まれ、その時点から今に至るまで魔女として生きてきた。
 彼女の血が魔女であり、肉が魔女であり、髪が魔女であり、目が、歯が、爪が魔女だった。
 
 マリエルの目は青い。
 それは昼の空の青さではない。
 虹彩におびる青は、深く暗い青だ。
 宇宙の青だ。
 そして髪の色も青く見えた。
 
 本当は黒なのだろう。
 しかし、霧に包まれた湖に彼女を見た者は、その髪の色を青と表現した。
 数少ない証言に、それは一様に一致していた。
 深い青の瞳と深い青の髪の魔女マリエル。
 彼女は今、城から出てくると、湖面に浮かぶ小舟に乗り込む。
 
 湖の畔に少年がいた。
 森に木の実を摘みに来て、収穫の良さに夢中になっているうちに湖にたどり着いていた。
 ハンスは辺りが静か過ぎることにやっと気付き、しゃがんだままの姿勢で顔を上げた。
 十メートル以上ある樹木の葉の隙間に灰色の空が見える。
 鳥の声がしない。
 
 いつの間に、こんなに曇ってたんだろう?
 家を出た時はあんなに晴れていたのに。
 
 空を見て急に寒さを感じたハンスは、指に摘まんでいたマテバシイの実を、手の平にギュッと握りしめた。
 立ち上がって、周囲を見回した。
 一方向だけが明るかった。
 森が開けているのだ。
 腰のベルトに通してぶらさげていた二つの麻袋のうち一方に、持っていた木の実を突っ込み、二つ共を尻の方へ回した。
 そして、明るい方へ歩き出す。
 木を何本か避けると、すぐに開けている場所が湖だと判った。
 ゾワゾワと、背中の産毛が逆立つ感覚があった。
 
 月の湖だ。こんな所まで来てたんだ。
 
 ハンスは一歩退き、手探りで木肌を見つけると、それを頼りに木に寄り添った。
 視線は少し先に広がっている湖と、その中に佇む城に釘付けだった。
 薄い霧の向こうの城は、不気味な尖った岩のように見えた。
 村の誰かは湖面から伸びた悪魔の鉤爪と言っていた。
 ハンスの頭の中で、月の湖に住み着いている魔女の噂があれこれと騒がしく動き始めた。
 
 帰らなくちゃ。
 こんな所にいたら危ない。
 魔女に何をされるか……。
 それに、この森は奥まで入っちゃいけないんだ。
 また母さんに怒られる。
 
 集めた木の実が走ってもこぼれ出ないように、袋についた紐をきつく引っ張り、結んでその口を閉めた。
 緊張のあまり必要以上に力を込めて結んでいることが、自分でも頭の隅の方で判っていたが、ぎこちない手の筋肉はスマートに動いてはくれなかった。
 木イチゴを入れている方の袋から果汁がじわりと滲み出た。
 
 さあ、帰ろう。
 
 そう思って体を後ろ向きに変えようとした時、城のすぐ近くの湖面が動いたような気がした。
 ハンスはじっとして、その方を見た。
 夜と月の力を借り、人々を狂気に誘う魔女。
 死を呼ぶ冷酷な悪魔。
 獣達でさえ怖れ、あの城に近付こうとしない。
 冷たいその手の一撫でで、全ての命を吸い込んでしまう。
 
 怖れる思いに反して、好奇心がハンスの足を前へと動かした。
 一つ、一つと、ハンスはゆっくりと湖に向かって歩く。
 高木の数は減り、十一歳の少年と同じくらいの背丈の木が増えた。
 辺りはいっそう明るくなった。
 空から雲が消える気配はなかったが、それでも白い明るさは周囲を包んでいた。
 もう昼も近い時間だった。
 霧が少しずつ晴れ、先程よりも城の形がよく見えた。
 ハンスは湖まであと一、二メートルという所まで来て、足を止めた。
 かろうじて身を隠すことの出来る木が、それ以上先になかったからだ。
 
 グレーだった城は、霧が薄れるにつれ濃いグレーになっていった。
 四角に切り出された岩を積み上げて作った物だろうと、ハンスは思った。
 そして、友達に自慢したいという思いが込み上げてきた。
 
 ジェイは何て言うだろう?
 いつも威張ってるロディーは?
 あの乱暴者のロディーだって、こんな所まではきっと来られない。
 本当は弱虫なんだから。
 この間、キャシーに凄まれて泣きそうになってるの、僕は見てたんだもの。
 村の子供でこんな場所に来たのは、きっと僕くらいだ。
 
 木の擦れるような音が聞こえ、ハッとした。
 一番高い塔の部分を凝視していたハンスは、慌てて視線を泳がせた。
 城は大きく分けると三つに分けられるように見えた。
 ハンスから見てやや右の奥に細く高い塔があり、手前にがっしりとした主要部分と思われる建物。
 その左側に幅は先の二つの中間くらいで、高さは一番低い建物。
 その三つが下の方で繋がっているようだった。
 三つのどれもが極端に尖った円錐形の屋根を持っていて、霧に包まれると、それが尖った岩に、時には一つの岩に見えるのだが、今では三つの屋根であることがハンスにはよく判った。
 一番太い胴体を持つ建物には湖面より少し上に大きな扉が取り付けられていた。
 そこから桟橋が目測で十メートルほど伸びていて、ハンスが驚いた音は、その桟橋の何処かから響いたようだ。
 ハンスは目を凝らし、桟橋を見つめた。
 そのうち、キー、コツン。ギー、ゴツン。といったような音が、小さくはあったが、規則的な間隔を空けて聞こえてきた。
 
 舟だ。
 
 そう思った次の瞬間、案の定、小舟が桟橋の先端の向こう側から姿を現した。
 舟はゆっくりと進んだ。
 波を立てるのを遠慮しているような、静かで滑らかな動きを、淋しいオールの音が後からゆっくりと追いかけた。
 舟が進むたび、ゆるゆるとさざ波が生まれ、頼りなく広がっていく。
 
 ハンスは思わず、木陰から出ると数歩前に歩いていた。
 舟を漕いでいるのは少女だった。
 少女と言っても、自分よりは大きく見えた。
 しかし、大人ではなかった。
 まして老女でもなかった。
 それは遠目にも判った。
 彼女は若く、そして、美しかった。
 ハンスは催眠術にでもかかったかのように、ぼんやりと少女を見つめた。
 霧は更に薄くなっていった。
 紺色の長い髪と、白い横顔と、腕が、十秒毎にはっきり見えてくる。
 
 紺色の髪。
 
 ハンスは急に緊張して、手を握りしめる。
 
 魔女だ。
 あれは魔女だ。
 あれが魔女なんだ。
 普通の女の子じゃないんだ。
 気付かれたら……。
 
 ハンスは走って森の中に逃げ込もうとした。
 しかし、足がすくんでいた。
 ただ、その場で二、三、足踏みをしただけだった。
 そしてその気配に、舟の漕ぎ手が気付いてしまった。
 気付いた時には、彼女はハンスの方を見ていた。
 
 息を一つ飲み込んだ。
 彼女は漕ぐ腕を止め、じっとハンスを見つめている。
 ハンスはぞっとした。
 しかし不思議なことに、それは恐怖からきたものではなかった。
 それが自分で判り、不思議だった。
 ハンスの背中を一直線に駆け抜けたその感情は、恐れではなく、淋しさだった。
 
 遠く離れていても、ハンスには彼女の表情がよく判った。
 漠然と美しいという以外の、顔の造形の細かい部分はもちろん判らなかったが、表情は判ったのだ。
 彼女の瞳の色は見えなかったが、濃紺と言われるその瞳の輝きは感じられた。
 それは、冷たく、淋しい輝きだった。
 
 君は、どうして。
 
 ハンスの唇が、震えるように動いた。
 が、声にはならなかった。
 そのうち、少女は左手を動かし始めた。
 舟が向きを変えると、両方の手が動いた。
 舟は少しずつ、ハンスから遠ざかっていった。
 
 雲が分厚くなったのか、辺りの白い明るさが陰った。
 それにつれ、霧が濃くなった。
 小舟は湖の奥、霧の中に溶けるように消えた。
 ハンスは霧を見つめていた。
 しばらくして、踵を返して森に戻った。
 このことは、誰にも話さないでいよう。
 歩きながら、そう思った。


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