小説|腐った祝祭 第一章 15
会場に入り、ナオミに深呼吸をするように言うと、彼女は素直にそうした。
「ちゃんと通訳してね」
「任せて」
「いいわ。それなら堂々としてるわ。だって、せっかくなんだもん、楽しまなくちゃね」
ナオミは自分に言い聞かせているようだった。
サトルはその、思い出作りのような言い方に少し不安を覚えたが、自分の気持ちを無視した。
出席者の数人と会話を楽しんだ後、サトルは少し離れた場所にいる男と目が合った。
目礼する。
「ナオミ、おいで」
ナオミの手を取り、男の方へ歩いていく。
「なに?」
「アーサー卿が来てる。紹介しよう」
「どんな人なの?」
「爵位で言えば男爵。大丈夫、気さくで面白い人だよ。物知りだしね」
アーサー卿はとても肥った男だった。
金色の頭髪が柔らかな羽毛のように頼りなく、丸い頭と丸い体は陽気な性格をそのまま体で現しているように見える。
ナオミを引き合わせると「お噂はかねがね」と言う。
最近モルガ女史にあったらしい。
「アーサー卿は考古学者で、世界中を旅してらっしゃるんだ」
と、ナオミに言った。
「ここでお会いできるとは思いませんでした」
「大使とは新年会で会ったきりだったよね」
卿はベストのポケットに指を引っかけながらそう言った。
彼は非常に暑がりで、何処でも上着をすぐに脱いでしまう。
「はい。あの後すぐに旅に出られたと聞きましたが、いつ帰って来られたんです?」
「つい三日前だよ」
「そうでしたか」
「それにしても、女史の言ってた通りの可愛らしいお嬢さんだね。まるで、」
アーサーが言う前に、いきなりナオミが言った。
「黒い金魚」
アーサーも驚いたが、サトルも驚いて、二人は顔を見合わせると笑った。
「面白いお嬢さんだ。でもそんな感じがするね。黒い琉金だね。お嬢さんは大使から私の噂を聞いているかい?」
「物知りで楽しいお方だと」
「変人だとは?」
ナオミは驚いてサトルに目を向ける。
サトルは首を振る。
「私は独身主義を通していましてね。まったく女っけが無いので、特に大使は変人だと思ってるでしょう」
「アーサー卿」
サトルはほんの少しだけアーサーを睨んだ。
アーサーはおやおやと肩をすくめた。
「こりゃ失礼。お嬢さん、どうして私が女性と親しくなれないか判りますかな?」
「いいえ。判りませんわ」
「この腹ですよ」
ポンと腹を叩く。
「このせいで女性とダンスが出来ないんですよ。腹がつっかえて手が届かないのです。だから親しくなる機会が無いのです」
ナオミは笑っていいのかどうか一瞬迷っていたが、すぐにクスクスと笑い出した。
それでアーサーも笑い出す。
「ほっほっほ。それさえなけりゃ私だってね、この国一のプレイボーイになる自信はありますぞ。ほっほっほ」
サトルはまずい相手に声をかけたかなと思った。
あまりナオミにそういった話は聞かせたくなかった。
しかし、モルガもアーサーもナオミをよく知らないので仕方ない。
向こうに悪気はなく、いつもの調子で話しているに過ぎないのだ。
いつもの女なら、その程度の話は軽く拗ねた笑顔で済ませてくれるだろう。
話を変えたいなと思っていると、ちょうどいい具合に主催者が挨拶に来てくれた。
四人で話を始めると、話題は先頃完成した州立図書館の学習専用別館について、に移った。
「ですから、IDカードがあれば国内全部の図書館を利用できる訳です。あ、そうだ。大使は今回の設計を担当した建築士を知っていますか?コールマンという外国人ですが」
「いいえ」
「ちょうどいい、紹介しましょう。ほら、ちょうどあそこにいる」
そして人数は五人になった。
「そうですか。我々の国でもお仕事を」
「そうなんです」
「忌憚ないご意見を伺いたいのですが、わが国の印象はどうでしたか?」
「ああ」
コールマンはサトルの質問に少し困ったような微笑みを浮かべた。
「そうですね、なんと言うか、あらゆる物を受け入れているというか」
「ふん」
「私ども建築家としては、よその土地に比べても、かなりこちらの自由にさせてくれるいい国だと思います。勉強もできるし、チャレンジもできる。ただ、そこで仕事をした私が言うのもなんですが、その街にとってどうかと言えば、多少疑問ですね。古典的なものから前衛的なものまであらゆる物が同じ街に入り乱れて、まあ、それが独特の雰囲気を醸し出して面白いという見方もできますが、ルル王国ファンの私としては、規制がなさ過ぎると感じました」
サトルは頷いて、これでますます帰国したくなくなった、という返事をする。
それからアーサーを中心に考古学や古代史の話に移行した。
「インダス文明の都市遺跡で……」
その最中だった。
会場の入口付近で騒ぎ声が沸きあがり、一際大きな男の怒鳴り声が聞こえてきた。
一同は会話を止めてそちらへ視線を向ける。
サトルはナオミの腕を引いて、自分の背後へ導いた。
ナオミは不安げにサトルを見上げる。
「なにかしら?」
「大丈夫だよ。警備員も配置されてる。私の傍を離れないようにね」
「ええ」
周りの者たちがその場を避け始めたので、騒ぎの起こっている場所がサトルの位置からも見えるようになった。
酔った男が女性グループに向かって罵声を浴びせている。
それを警備員が引き止め、外に出そうと努力しているところだった。
男は汚い言葉を吐いて、警備員の手を振り払おうとした。
そして自分を迷惑顔で見つめている周りの人間達を、恨めしそうに見回した。
その顔の向きが、サトルの場所で止まった。
男は鼻で笑ったようだった。
サトルは知らない顔だが、向こうは知っているようだ。
主催者にそっと聞いた。
「誰です?あの男は」
「サミュエルという詩人です。去年出版した本が売れましてね。名前も少しは売れたようですが、それ以外これといった活躍は聞きません。困りましたな。あんなに酒癖の悪い男だったとは。しかし、今日は欠席の返事だったと思います。どういうことだろう。失礼」
男は主催者として事態を収拾しにそちらへ向かったが、サミュエルはサトルを不敵な笑みで睨んだままだった。
そして、主催者が話しかけると抵抗をやめた。
警備員は手を離したが、傍は離れなかった。
サトルは睨まれているので、仕方なく男を見ていた。主催者と比較して、背の高い男だというのが判った。
すると男は、サトルに呼びかけた。
「よう、色男」
止めようとした主催者の手を振り払い、足早にサトルの方へ向かってくる。
サトルはナオミを自分の真後ろに立たせた。
警備員が追いついて、サトルの2メートル手前でサミュエルの腕を掴まえる。
しかし彼は、それを気にした風もなく口を開いた。
「さっそく新しい女を連れまわってるんだな」
「失礼だが、私は君を知らない」
「知らない?ははあ、そうですか。ごもっともですよ、閣下。俺はぱっと出の、くだらん詩を書いてる男さ。他に仕事がなくてやったことだ。でもお陰で去年から金が入ってきてる。今では少しは金持ちになったんだ」
「それが、私に何か関係があるのかな?」
「すかしやがって」
一歩踏み込もうとした男を、二人の警備員が両腕を引っ張って止めてくれた。
「相当酔ってるようだね。顔が真っ赤だ。馬車を呼んでもらったらどうだい」
「煩せえ。デリラは貴様のせいで逃げたんだ。チクショウ!」
女か。
溜め息をつきたかったが、そうならないように呼吸をした。
「デリラ?」
正直、その名の女をすぐには思い出せなかった。
サミュエルが眉毛を痙攣させた時に、やっと思い出す。
少し前に別れた女の名だった。
「君がデリラの何なのかは知らないが。もう彼女と私とはなんの関係もないんだよ。なにか勘違いをしているんじゃないのかな」
主催者が警備員をもう一人連れてサミュエルの傍に立った。
「やめなさい、サミュエル。君はここの招待客ではない。出て行ってもらおう」
「煩い!」
「警察を呼んでくれ」
主催者は近くにいた給仕係にそう言った。
サミュエルと三人の警備員はしばらく揉み合いになった。
元から力があるのか、酒のせいなのか判らないが、サミュエルはなかなか大人しくならなかった。
サトルの傍に知り合いが駆けつけてくれた。
そして耳元で言う。
「デリラに相手にされなかったんだよ。こないだ振られたんだ。逆恨みさ」
なるほどね、と頷く。
しかし、なんと迷惑な男だろう。
ナオミが言葉を聞き取れていなければいいがと願った。
「クソ!デリラを何処に隠したんだ!」
「誰も隠したりはしていないよ、サム」
「嘘だ!貴様が隠したんだ!」
一歩ずつ、警備員に押されて、サミュエルは後退していった。
「そこまで言うなら、私からデリラに頼んでおこうか?留置所に入れられたサムソンに面会に行ってくれと。まあ、彼女にとっても迷惑な話だろうが、私にはもっと関係のない話なんだからね」
「クソ!覚えてろよ!」
怪力男はやっと会場の外へ放り出された。
「大使、本当に申し訳ない。これからはあのような男に間違っても招待状は出しません。許してください」
「大丈夫です。あなたのせいではないです」
「あの男もこれでお終いだな」
サミュエルが出て行くと、主催者が仕切り直しの挨拶をしたが、会場は今起きた騒動についての話でざわついていた。
しかし、それもしばらくすれば落ち着くだろう。
ナオミを見ると、気まずそうに目を伏せる。
どうやら、言葉を理解できたようだった。
手を差し伸べると、ナオミは俯いてテラスの方へ歩いていく。
サトルは手にしていたカクテルグラスをテーブルに置き、後を追った。
テラスには他に人がいたが、二人に気付くとその場を立ち去った。
「ナオミ、ここじゃ寒いだろう」
「平気よ。酔い覚ましにはちょうどいいわ」
サトルはナオミの前に立つ。
「私はなんて運が悪いんだろうね。最悪だよ。一番肝心な時に邪魔が入ってしまった。でも、聞いてくれ。本当にあの男が言っていた女性とは、今は何の関係もないんだ。確かに付き合っていたけど、それは昔の話だ」
「いいの。大丈夫よ。少し驚いただけなの。少し、落ち着きたかったの」
「じゃあ、戻ろう。風邪をひくよ」
「……もう少し、ここにいる。なんだか、少し恥ずかしいし」
「ナオミが恥ずかしがる事なんかないんだよ。おかしいのはあの男なんだから」
「ええ、だけど、お願い。もう少し、ここにいさせて。なんだか、いろいろ考えてしまって」
「なにを?明日の飛行機の時間か?」
ナオミは哀しそうに首を振った。
「私、サトルさんのこと好きよ。そうよ、好きにならない訳ないじゃないの」
「それなら」
ナオミの手を取った。
「嫌いになっていたら悩まないわ。デリラって人がどういう女性か知らないけれど、そんなのどうだっていいの」
「それなら、どうしてそんなに哀しい顔をするんだ?」
「私、この国が好きよ。街並みも綺麗だし空気も綺麗だし本当に素晴らしい土地だと思う。本当のことを言えば、帰りたくなんかないの」
「だったら帰らなければいい」
「そんな簡単にいかないわ。私はあなたほど自由な人間じゃないんだから」
「ナオミ」
なにが不満なんだ?
なにも心配はないというのに。
全ての要求を叶える準備をしているのに。
「家族に会えなくなるわけじゃない。一生家に帰れないというわけではないんだ。私に帰国できる準備ができれば一緒に里帰りをしよう」
サトルはポケットから小さなケースを取り出す。
「本当は、邸に帰ってから渡すつもりだった」
ケースを開くと、当たり前のように、中央一列にダイヤが並んだ金のリングが二つ納まっていた。
二つは幅の広さが少し違っている。
細い方のダイヤは、太い方より大きかった。
「この状況で君が受け取ってくれるとは思っていないけど、私の気持ちは判ってほしい。私だって今日までずっと君を見ていたんだよ。初めて君にキスしたいと思った時より、今では何倍も好きになってる」
ナオミはゆっくり手を伸ばし、包むようにしてケースを閉じた。
それをサトルの胸に押しあてて言う。
「明日の朝まで、考えたいの」
サトルは仕方なくケースをしまった。
背後から「失礼しますよ」と、アーサー卿が声をかけてきた。
二人はそちらに顔を向ける。
「会場内の気分を変えようと、ダンスが始まりましたよ。ナオミさん、どうです?この太っちょの相手をしていただけませんかな」
「えっ」
ナオミは驚いて、アーサーとサトルを交互に見た。
「奇跡的に手が届けばいいんですが」
「本当はアーサー卿も皇太子と同じくらいダンスはお得意なんだよ。滅多に踊ろうとなさらないけどね」
サトルにも勧められたので、ナオミは少し緊張気味の表情ながら室内に戻った。
サトルは壁に背を付け、二人を見ながら酒を飲んだ。
会場内はアーサー卿が見慣れぬ外国人女性とダンスを始めたことで、楽しげな賑わいで満たされた。
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