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小説|青い目と月の湖 8

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 エレンが、ハンスとそっくりな大きな瞳を見開いていた。
 クロードはそれに、曖昧な微笑で応えるしかなかった。
「夜分に、失礼します」
 エレンは挨拶の言葉も忘れて、クロードが抱きかかえているハンスに目を落とす。
 ハンスは毛布にぐるぐると包まれている。
 クロードには彼女が酷く緊張していることが判った。
 上手くそれを解きほぐすことが自分にできるかどうか判らなかったが、とりあえず、出来るだけ穏やかな声を出すように努めた。
「眠っているだけですから」
 エレンははっとして、肩を強張らせた。
 おそらくは、ハンスが死んでいるのじゃないかという思いが頭を過ぎっていたのだろう。
 彼女が顔を上げた時、そう思ったことを見透かされて、口惜しいような、恥ずかしいような、といった複雑な思いがそこに浮かんでいた。
 クロードは申し訳ない気分になった。
 別に、嫌味で言ったつもりではないのだ。
「部屋か、居間に運ぼうと思いますが」
「あ、ええ」
 エレンは慌てて廊下の脇に避け、道を開けた。
 廊下の床に明かりを落としている居間の入口へと手を差し向ける。
「あちらに」
「はい。じゃあ、失礼して」
 クロードは居間に入ると、ソファーにハンスを寝かせた。
 こぢんまりとした部屋だが、落ち着いた家庭の雰囲気のある心地の良い部屋だった。
 もちろん、エレンにとって今だけは居心地が悪いだろう。
 クロードは惜しむ気持ちを覚えながら、早々と退散するために立ち上がった。
 
 エレンは、ハンスの小麦色の髪よりも、少し赤みの入った色の髪を一つに結い上げ、長い袖のワンピースを着ていた。
 臙脂色と鳶色の細い縦縞模様で、その上につけた白いエプロンを、前で重ねた両手で軽く掴まえていた。
「あの、ハンスはいったい」
「家に泊まると言っていたんですが、あなたの許可を得たのかどうか疑わしいので、眠った隙に運んできたんです。もし嘘だったら、あなたが心配されるだろうと思って」
「そうですか。あの森のお宅から、お一人で?」
「ええ」
「そうですか。今日は少し、この子と喧嘩のようになってしまって……。あなたの家に泊まるとは言っていましたが、本気だったのかどうか、よく判らなくて心配していたんです。お手数をおかけして、どうも申し訳ありませんでした」
「いいえ。あの、ドーナツを頂きました。ごちそうさまです。とても美味しかったです」
「まあ、あんな子供のお菓子。どうも失礼いたしました」
 話を進めるほど、丁寧過ぎるぎこちない会話になっていきそうだった。
 クロードは会釈して廊下に出た。
 エレンは玄関まで見送りに出てきた。
「あの、お帰りは歩きですか?」
「はい」
「大丈夫かしら。その、今日は月も翳っているし」
 クロードはポーチに置いていた手提げランプの前にしゃがむ。
「灯りはありますから、大丈夫です」
「そう。でも、お気をつけ下さいね」
「慣れていますから、御心配なく」
 コートのポケットからマッチを取り出し、菜種油を利用したランプに火をつけながら考えていた。
 
 彼女に言うべきだろうか。
 ハンスが北の森に近付かないように、もう一度エレンからも注意してくれと。
 いや、やめておこう。
 そうすればエレンをも不安に陥れることになる。
 下手をすれば村中にそれが広まりかねない。
 そっとしておく方がいい。
 ハンスが言うことを聞いてくれれば、それでいい。
 あの森の奥に確かな強い妖気を感じたことは、誰にも言わない方がいい。
 私に言われなくとも、人々は既に肌で感じ、警戒しているのだから。
 
 ランプを持って立ち上がる。
「それでは、おやすみなさい」
「おやすみなさい。……あの」
 行こうとしたクロードは振り返った。
「はい?」
「その。私、あの時はちゃんと、お礼を言っていなかったような気がします。その後も、ゆっくりあなたにお会いすることはありませんでしたから」
 クロードの胸の中で、何かがぞわぞわと蠢いた。
「つまり、その……。ありがとう。主人を助けて下さって、運んで下さって、ありがとうございました。結局は、助からなかったけれど、あなたが見つけてくれなかったら、あの人はずっと暗い崖の下にいるところだったわ。あなたが彼を引き上げて運んでくれなければ、私たちは、二度と生きている彼に会えないところだったわ」
 顔の表面の神経が、ちくちくと痺れるような感覚があった。
 クロードは一つ、痙攣を起こしたような動きで首を振った。
 そして二度目の会釈をした。
「いえ。おやすみなさい」
「気を付けて」
 クロードは三度目の会釈をし、そのままもう二度と振り返らずにポーチの階段を降りた。
 
 不自然でないようにゆっくり歩いていたつもりだが、徐々にその足は速くなった。
 もう家の灯りも小さくなっているだろうという所までくると、ほとんど駆け足に近い状態だった。
 火照った頬を冷たい夜風が打ちつけた。
 クロードは走っていた。
 息が弾み、揺れすぎてランプの火が消えそうになっていることに気付いて、やっと足を緩める。
 クロードはランプを持っていない方の手で頬を触った。
 手が酷く冷たかった。
 手をずらして口を覆い、大きく息を吐き、呼吸を整えた。
 肩を大きく上下させるが、なかなか息は落ち着かない。
 胸の中ではまだ何かがぞわぞわと動いていた。
 生暖かい感覚だった。
 クロードは嬉しかったのだ。
 正面から感謝されたのは、これが初めてだった。


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