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小説|青い目と月の湖 9

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 食糧を運ぶハンスのために、役場はジョルジオ農園から一頭の馬を借りてくれた。
 エレンはハンスが思っていたほどはその仕事について反対しなかった。
 ただ、行き帰りに絶対寄り道をしないことを強く約束させられはした。
 荷物を置いて、すぐに帰ろうとしたハンスに、クロードは少し名残惜しそうに言った。
「もう帰るのか」
「うん。いつ降り出すか判らないからね」
 クロードは樹々の合間に少しだけ覗く空を、窓から見上げる。
 
 一週間前にはとうとう池が凍り、更にそれを分厚くしていこうとするような寒さではあったが、天気は今朝から良かった。
 青い空を見て、それでもクロードは「仕方ないな」と、言った。
 村に雪が降ってから、食糧の配達はおよそ二週間に一度というペースに落ちている。
 天候が悪いとそれも延期を余儀なくされる。
 それで今日は、ハンスに会うのは三週間ぶりだった。
 前回配達のあった日の三日前には、クロードは村で一仕事していた。
 いつものように、本当に魔物のせいだったのか、偶々良いタイミングで病気が治っただけなのか、訝る村人は何人もいた。
「マーティンさんはその後どうかな」
「うん。元気だよ」
「そう。良かった。ハンス」
 窓から部屋に顔を戻すと、ハンスは既にドアの前に立っていた。
「冬は多めに持ってきてくれるから余裕があるんだ。今日みたいな日はいいが、天気の悪い日は無理をしないように。今日受け取った分で、何とか一ヶ月は過ごせそうだし」
「うん。判った。僕が無理そうだったら、大人に行かせるってパークスさんも言ってたしね」
「それがいい。気をつけて帰るんだぞ」
「うん。少し雪が積もってるくらい、僕は平気なんだけどさ。じゃあ、またね!」
 元気にそう言って、ハンスは出て行った。
 もう少し話をしたい気分ではあったが、子供に無理を言う訳にもいかない。
 クロードはもう一度、青い空を見上げた。
 

 マーティンは自宅の廊下でいきなり倒れ、家人が役場に連絡をいれ、そしてクロードが呼ばれた。
 クロードが駆けつけた時、マーティンは廊下にうつ伏せになっているままだった。
 家人や医者が動かそうとすると、酷く苦しがって手が出せないという状態だったのだ。
 それもその筈で、彼の背中には一メートルほどの背丈の深緑色をした化け物がどしりと座り込んでいた。
 全体的には人の子供のような形をしていたが、コヨーテが酷く年をとった様な、顔中が皺だらけの顔を持っていた。
 皺は体にも及んでいて、顔も含め全身の皮膚に毛はなく、水分の多い泥のような艶があった。
 その容姿の中でもクロードが一番気になったのは、異様に太く張り出したスイカのような腹だ。
「どいてくれないか」
 クロードが静かな声で魔物にそう声をかけると、周りにいた何人かは慌ててその場を避けようとしたが、その言葉の先がマーティンの背中にあると気付くと、一様に不安な表情に変わった。
 そして、改めてその場を避け、クロードとマーティンを遠巻きに見つめた。
 
 魔物はクロードを目にした時から、ニヤニヤと笑っていた。
 濁った黄色い目が三日月に揺れた。
「素直に退散するなら、私はお前に手を出さない」
「ヤダね」
 子供のような甲高い声だったが、もちろんクロードにしか聞こえていなかった。
 クロードの呟くようなセリフは、その落ち着いた静けさから、他の者たちの耳には呪文のように聞こえていた。
「どうする気だ」
「もうしばらくここに座っていれば、こいつの肺が潰れて息が止まる。そしたら墓に埋められる。それからゆっくり肉を喰う」
「それは困る。この男はお前に喰われるために生きていたのではない。人間の世界から出て行ってくれ。大人しく、自分たちの世界に戻ってくれないか」
「ヤダね。人間の肉は精がつく。偶には喰わないとな」
「お前に引き下がる気はないんだな」
「ないね。お前にはどうして俺が見える?邪魔な男だ。お前こそ放っておいてくれ」
「誰かが私にそういう力を与えた。そして私は人間だ。故に、私はお前を退治する。警告はした」
「退治?なるほど魔法使いか。魔法使いなら、二、三人喰ったことがあるぞ。随分昔の事になるけどね」
 魔物にも個性があるものだ。
 経験上の常識として魔物は嘘をつかない。
 魔術師たちにとってそれは共通認識であり、こちらが有利に立てる要件の一つだ。
 この時の相手はその上に少し呑気すぎるようだった。
 おそらくは、力の弱い人間にしか今まで出会ったことがなかったのだろう。
 クロードはその犬風の頭を掴んで力を入れた。
 林檎を割るくらいの力で、その頭蓋は潰れ、魔物は息絶えた。
 頭から流れた血や体液は、すぐに黒い霧へと変化し空気にとけた。
 クロードは死体を片手にぶら提げ屋外に出ると、土の上に放り投げた。
 深緑の肉体はすぐに黒くなり、ずぶずぶと形を崩した。
 そのうち黒い固形物は黒い気体に変わり、半分は空気に半分は土に吸い込まれていった。
 地面には黒い染みが残ったが、それも見ているうちに消えた。
 クロードが家に戻ると、マーティンは疲れた様子で壁に背をもたせかけ、足を廊下に投げ出し、医者に脈を測られていた。
 
 帰り際、マーティンがクロードの傍に近付いてきて、囁くように言った。
「あんたが良ければだが、冬の間、森の入口にある作業小屋を貸してもいい。その、お礼に……。あんたの今の家よりずっと近いし、仕事が入った時、村にもあんたにも都合がいいだろう。村長に今度言っておくよ。考えてみてくれ」
 クロードは「考えてみよう」とだけ言って、森に帰った。
 その時はあまり本気にはしていなかった。
 助けてもらった直後で、彼の気持ちが高揚していただけかも知れないからだ。
 しかし、その後にハンスが運んできた荷物の中に役場からの手紙が入っていた。
 マーティンは焼き物職人だ。
 作業小屋とはその窯のある小屋で、雪の季節には窯に火は入れず、硬い粘土をこねることもなかった。
 冬は主に人の牧場の手伝いをして生計を立てていた。
 その彼に、小屋を魔術師に貸さないかという話は、冬が近付くと村長から度々持ちかけられていたようだ。
 今までマーティンは、クロード以前の魔術師の時も含め断わり続けていた。
 それが、今回自分が助けられたのをきっかけにして、気持ちに変化が表れたわけだ。
 手紙には、希望なら引越しのために馬を貸すので、連絡をくれるようにと書かれていた。
 
 確かに、村に近い方が便利ではある。
 いざと言う時に手遅れになる危険も減る。
 しかし、乗り気ではなかった。
 森の中にいれば、村人の態度を目の当たりにして、不必要に憂鬱になることもないからだ。
 しかし、エレンといい、マーティンといい、恐れながらも態度を軟化させてくれる村人は何人か出てきている。
 それを思うと気持ちは少し揺れた。
 窓のすぐ傍の木が傾いだ。
 枝に積もった雪が、音を立てて落ちていく。
 クロードは窓辺を離れ、ハンスの持ってきてくれた塩と砂糖、粉末にした小麦やトウモロコシ、干し人参、蕪、葉野菜などをキッチンに運び始めた。


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