小説|青い目と月の湖 17
ノックの音でドアを開けると、ハンスが溢れ出しそうな笑顔を上に向けていた。
その頭の後ろ、少し高い位置には、マリエルのはにかんだ顔があった。
クロードはハンスに視線を戻して言った。
「どうした?」
「遊びに来たんじゃないか。来ていいって言ったでしょ、こないだ」
「そうか。忘れていた」
クロードは少しとぼけて、二人を家に招き入れた。
先日、クロードの伝言によってマリエルに会えたハンスは、配達の時にその礼を言い、マリエルをここに連れてきてもいいかと聞いたのだった。
クロードはハンスが言い出さなければ自分から誘うつもりだったので、もちろん快く承知していた。
月の湖については、詳細は話さなかった。
ハンスに魔物の話しをすれば、そのうちマリエルにも伝わってしまうだろう。
はっきりと確認は出来なかったが心配だから城には行くなと注意し、マリエルが怖がるといけないので、自分が魔物を気にしていたことは言うなとだけ言っておいた。
この程度のことなら、ハンスも守ってくれるだろうと思った。
マリエルは微笑んでいるように見えたが、注意して見てみると、微笑みが緊張のために固まってしまっているといった様子だった。
春らしい黄色みを帯びた白のワンピースを着ていて、靴もそれに似た色をしている。
どちらも森を歩くのに適しているとは言えない代物だ。
村を歩くのでさえ、上品過ぎるくらいだった。
それに少し、懐古的な印象を与えるドレスだった。
クロードはマリエルのためにテーブルの椅子を引き、彼女が座るとキッチンへ行った。
今朝摘んできたばかりのミントでハーブティーを三つ作り、部屋に運ぶ。
テーブルの二人を眺めることが出来るように、机の椅子の向きを変えて腰を降ろした。
ハンスはエレンに作ってもらったクッキーをテーブルに広げていた。
とりあえずそれを食べているのはハンスだけだった。
マリエルは遠慮がちに時々ティーカップに口をつけるだけで、硬い笑顔は崩していない。
クロードは言った。
「君は、一人であの城に住んでいるそうだね」
二人は同時にクロードを見、マリエルはすぐにカップに目を移した。
ハンスの方はそんなマリエルを、興味深そうに見た。
何を喋るのかと、期待しているようだった。
ハンスにも、マリエルが自分と二人でいる時よりも大人しくなっていることが判っているのだ。
マリエルは、二人の注目を集めていることを意識しないでおこうと注意するかのように、視線をティーカップの辺りでうろつかせていた。
そしてやっと、「はい」とだけ答えた。
「素朴な疑問があるんだが、聞いてもいいかな?」
「ええ」
「君は村にも出入りしていないし、ほとんど城からも出ないそうだけど、食事はどうしているのかな?」
「ああ」
と、マリエルは言った。
少しほっとしたように見えた。
彼女にとって簡単な質問だったらしい。
「地下の貯蔵室に、食糧はいくらか保存していますし、時々運んできてもらえるんです」
「誰に?」
「村の人だと思いますけど」
この時、ハンスは顔をしかめた。
そんな話は初耳だったようだ。
「よく判りません。旅の人かも知れないし、行商の人かも知れないし」
「どう言うこと?」
ハンスが聞くと、マリエルはハンスに顔を向けて、緊張の抜けた自然な笑みを顔に浮かべた。
「私もよく判らないの。でも、昔からそうなの。近くの沢に一緒に行ったことがあるでしょう?あそこに大きな岩があったの、覚えてる?」
「うん。岸辺にでしょう?」
「そう。あそこに、食糧や、時には服とか、ハンカチなんかの小物も置いてあるの。誰が持って来てくれるのか知らないんだけど、昔からそうなの。母がいた時は、いつも一緒に取りに行っていたわ。何となく、そろそろかなと思って、そこに行くと、いつもそういった物が置いてあるの」
「そんな、魔法みたいな話しってないや」
「でも、本当なんだもの」
ハンスは首をひねっていた。
クロードは言う。
「持ってくる人を見たことは?」
「ありません。本当に、魔法みたいね。でも、母は村の人が運んで来てくれているんだろうって言ってたわ」
「僕、村でそんな話聞いたことないよ。そんな不思議な話ってあるかなあ」
「そう。昔からそうだったから、私はとくに不思議に思ったことはないけど、でも、よく考えたら不思議かも知れないわね」
「不思議だよ」
「でも私、魔女だから、きっとそういう事もあるんだわ」
ハンスが驚いて、目を大きくした。
「魔女?」
「ええ」
「今、魔女って言ったの?」
「ええ」
ハンスが要領を得ないので、クロードが質問を請け負った。
「マリエル。君は自分を魔女だと思っているのかい?」
マリエルはやっと、クロードに顔を向けた。
話をしているうちに少しずつクロードにも慣れてきたようだ。
「ええ。あなたたちもそうでしょう?村では、私たちは魔女と呼ばれている筈だけど。母が、そう言っていたから」
「周囲で月の湖がどのように噂されているか、君は知っていると言うんだね」
「ええ。母に教えてもらいました。私たちは魔女で、村の人々には怖れられているから、決して村に行ってはいけないと。できるだけ、城の外に出ることも避けるようにとも言われました。ハンスとお友達になれたから、時々こうやって外に出ているけれど、もちろん村に行く気はありません。皆さんを怖がらせたくはないですから」
「君は具体的に、魔女というものをどう……その、認識しているのかな?」
「私たちは、魔法を使える訳ではありません。でも、私の血が魔女なんです。私たちの一族はずっとあの城で暮らしています。言い伝えでは、湖が私たちを守ってくれているそうです。私もそう感じています。あの湖から守ってもらえる力を、私たちは持っているのだと思います。先刻の食糧の話もそうです。湖から風が吹くんです。それで、そろそろかなと感じたら、出かけていきます。そうしたら其処に、必用な物がちゃんと用意されているんです」
湖が人間や動物を誘導している。
もしくは、今まで彼女たちの子孫を残す手助けをしていた男たち側にも、何らかのルールが言い伝えられているのかも知れない。
確かに難しい問題ではないようだ。
男たちがこの村の人間とは限らない。
もっと遠くの村、町から来ることもあっただろう。
通りすがりの旅人だったこともあるだろう。
それらしい噂がこちらの村になくとも、不思議ではなかった。
見ると、ハンスの顔に不安な表情が表れていた。
クロードはハンスに向けて言った。
「湖が魔女を守っていると言うのは、なかなかロマンティックな話しだね」
ハンスはクロードを見た。
少し困ったような顔になっていた。
クロードは微笑む。
「彼女の一族は、魔女という名で代々続いてきたんだ。それだけの事だろう」
そして、マリエルに言った。
「私には魔女という、言わばおとぎ話のような、一般人からすれば漠然とした存在でしかない種族が、実在するのかどうか判らない。存在したと聞いたこともないし、魔女の定義も知らないし、定義があるという話も聞いたことがない。君が今ここで魔法でも使ってくれたなら、ああこれが魔女かと認識できるだろうが、君は魔法は使えないと言う。その上、魔術師の私から見て、君は確かに魔物でもない。私だけでなく、どの魔術師の前に連れ出しても、君を魔物だという者はいないだろう。君は単に可愛らしい普通の人間の女の子だ。しかし、君の一族に認められるある種の特異性は実に興味深い。君は先刻、言い伝えと言ったけれど、それは文書として残されているものなのかな?」
「え、いえ」
マリエルは面食らったような表情をしていた。
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