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小説|朝日町の佳人 17

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 タカラダ運送の飾り気のない営業所の玄関から出てくると、ひょいと根木さんが現れた。
「おお、こんにちは。中にいらっしゃらなかったので、お休みかと思っていました」
「ええ、ちょっとサボってただけです。それより、この間はどうもでした」
「ああ、そうですね。驚きましたね。僕は場違いな普段着で、ちょっと恥ずかしかったんですが」
「ええ、そんな事ないですよ。田中さんの普段着、格好良かったですよ。さっぱりしていて、いつも通り爽やかでしたもん」
「そうですか、それはどうも」
「あの、それで、なんですけど」
「はい、何でしょう?」
「今度、お食事でもどうですか?」
「へ?」
「あ、唐突過ぎました?ごめんなさい」
「えっと、いや、謝ることはないですが」
「駄目ですか?」
「いや、駄目という事はありませんが、そうですね、どうしましょうか。急で、ちょっと驚いてしまって。あ、そうだ。そういえば、すっかり忘れていたんですが、以前タクシーで御一緒したでしょう」
「あ、はい」
「あの時、ハンカチを忘れませんでしたか?車の中に落ちていたんですよ、花柄のやつです」
「あ、ああ、そういえば。見当たらないなあって思ってたんです。そうなんだ、タクシーに忘れてきちゃってたんだ」
「僕、それを預ってるんですよ。すみませんでした、言うのが遅くなって。という訳で、それをお渡ししないといけないことだし」
「じゃあ、OKですね?」
「はい、OKです」
「じゃあ、今日なんかどうですか?」
 僕は笑った。
「今日はあいにく、ハンカチを持ってきていませんよ」
「あ、そうか」
「それに、今日は何となく曇っているし、もしかしたら雨になるかもしれませんね。出来れば違う日の方が」
「そうですね。じゃあ、近いうちに連絡入れていいですか?田中さんの電話の方に」
「いいですよ。お待ちしています」
「やった。じゃ、そういう事で」
 根木さんはそう言うと、悪戯っぽい笑顔を残して、そそくさと仕事に戻っていった。
 オフィス用のスリッパを履いているところを見ると、僕は待ち伏せされたのかも知れない。
 腕時計に目をやると、もう五時を過ぎていた。
 僕は歩きながら会社に電話を入れ、業務連絡の後に直帰の許しをもらうと、そのまま駅に向かった。
 
 駅までもう少しという所で雨に降られた。
 電車に乗っている間に本降りになってきて、朝日町公園前駅で降りた頃には土砂降りだった。
 確かに朝の予報では夕方から雨だと言っていたが、朝の天気があまりにも良かったので、僕はそれを軽視して折り畳み傘も持ってきていなかったのだ。
 改札を出て、階段を降りながら、さてどうしようかなと考える。
 
 一、雨が止むまで待つ。
 二、傘を買う。
 三、濡れながら走って帰る。
 四、実家に電話して傘を持ってきてもらう。
 五、……百合の傘を借りる。
 
 高架を支える大きな柱を背に、百合が傘を二本持って立っていた。
 階段を降りきった僕に、見覚えのある紺色の傘を無愛想に突き出した。
「おばさんが持ってってあげてって言うから、来てやったの」
「そう。サンキュー」
 僕は受け取り、傘を差し、黄緑色の傘を差した百合と並んで歩いた。
「でも、傘持ってってないって、よく判ったな」
「え、なに?」
 何しろ土砂降りなので、傘の上でバチバチと雨が弾け、お互いの声が聞こえにくいのだ。
 僕は大きな声を出した。
「傘、持ってないの、よく判ったな」
「ああ。だって、傘持ち歩くの嫌いじゃん」
「え?なに」
「だから、ったくもう」
 百合は苛々と顔を歪めて、急に僕の方へ身を寄せると、自分の傘をたたんでしまった。
「傘持ってくの、いつも嫌がるでしょ、君は」
「あ、ああ」
 同じ傘の中に入れば、それは話もしやすいが、いったいこいつはわざとやっているのか、全く他意はないのか、僕の腕に手を組んでくるのだから始末が悪い。
「でも何時に帰ってくるかも判らないだろう」
「飽きたら帰るわよ」
「あっそう」
「なんか煙草くさい。健ちゃん、煙草吸うの?」
「吸わないよ。他人のが移ったんだろう。会社でも、結構いるからな」
「ふうん。あのね、おばさんが御飯食べに来ていいって言ってたよ」
「そう。それは助かる。が、明日からにしよう」
「どうして?」
「これが見えないのか?」
 僕は手に提げていた照り焼きチキンバーガーの入った袋を、百合の目の前で振った。
 電車に乗る前に買ったものなので、もうすっかり冷めているだろう。
「見えてるけど、それが何よ。とうとう夕食をジャンクフードで済ませるようになった、三十男の哀愁を見せ付けたいの?」
「ふん。せっかく買ってきたんだから、これを食べるよ」
「今日のおかずを聞いたら、それを明日に回したくなると思うよ」
「じゃあ言うな。僕はこれを食べる。今日食べないと美味しくない。それに、人を勝手に勘当しといて、いいよって言われたからって僕がひょこひょこ帰ってくると思ったら大間違いだ。いい機会だから息子の存在の大きさを思い知らせてやる」
「小さな男ねえ。それで復讐してるつもりなの」
「ふん。何とでも言え。僕はこれを食べるんだ」
「別にいいけどさ」
 地味な遊具と朝だけグラウンドゴルフ場になる広場を持った公園の横を通り過ぎ、地味で短い商店街を抜け、ありふれた住宅街を歩いてしばらくすると、ちょっと立派な沢口邸が右手に現れ、それを通り過ぎると左手に三階建てのアパートが見える。
 その三階、303号室が僕の部屋だ。
 アパートの前で立ち止まり、僕は百合に傘を差すように言った。
 百合はうんと言いながら、傘の柄をいじるばかりでなかなかそれを差そうとしない。
「どうした?」
「うん。健ちゃんち行こうかな」
「は?なんで?」
「照り焼きチキンバーガーの匂いが先刻から私を誘ってるから」
 それが本心かどうか判らないが、何か話があるのかもしれない。
 僕はまあいいけどと素っ気なく答えてアパートの階段を上り、百合は後ろに付いてきた。

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