見出し画像

小説|腐った祝祭 第一章 4

 出迎えてくれた警備員に聞くと、客とクラウルは執務室にいるということだった。
「警察は呼んだのかい?」
「いいえ。まだのようです」
「判った」
 大使館に入ると、クラウルの部下が出迎えてくれる。
「警察に連絡を。一人でいいだろう」
「はい。かしこまりました」
 執務室に入ると、応接用のソファーに女性が座っていた。背中を向けていたが、栗色の髪が長く、美しかった。その傍に立って何か話をしていたクラウルが、サトルを見て頭を下げた。
「パスポートの紛失だと言ったね?」
「はい」
 クラウルは返事をして、客人の方へ頷いた。
 女はそれを見て立ち上がった。
 振り向いた女は、多少の緊張を顔に浮かべていた。久し振りに見る自国民の顔立ちに、サトルは懐かしさを覚えた。可愛らしい女だった。
 サトルは先に言った。
「はじめまして」
「はじめまして」
 女は言って、クラウルを見ると、ほっとしたように微笑んだ。
 二人の間でどんな会話が交わされていたのか知る由もないが、少しくらいの想像はついた。サトルはつとめて真面目な表情でクラウルに言った。
「私の悪口でも言ってたのかな」
「とんでもない。自分の国の特命全権大使に会うなんて初めてだと、このお方がおっしゃいますので、気負うことはありませんよと、申してい上げていただけです」
「ふうん」
「大使と言うからには、年を召した厳しい顔付きの男に違いないと言われるので、その逆をお考えなさいと、ヒントを差し上げていた次第で」
「ほう」
 サトルは女に目をやる。
「それで、どうでした?」
「ええ」
 女は口元に手をあててくすりと笑ってから、両手を体の前でつないだ。
 そして言う。
「お若くて驚きました」
「確かに、この執事よりはうんと若いですがね」
 クラウルは途端に不満顔になったが、文句は言わなかった。
「クラウル。警察を呼んだから出迎えてくれ」
「はい。こちらにお通しすればよろしいですか?」
「ああ。頼むよ」
「承知いたしました」
 クラウルは客人にも頭を下げて、執務室を辞した。
 サトルは改めて女を見ると、ソファーを勧めた。
 女は静かに座り直し、サトルもその前に腰を降ろした。
「こちらには観光で?」
「ええ、そうです」
「パスポートは落とされたんですか?」
 女は和ませていた表情を、すっとくもらせた。
「いいえ。盗まれたんです。公園の遊歩道を歩いていたら、男が後ろから走ってきて、追い越し様にひったくられて・・・・・・」
「鞄ごと?」
「ええ。でも、少し追いかけたんですけど、途中でバッグは捨てられました。もうそれ以上は走れなかったので、バッグを拾って。そしたら、パスポートの入っていたポーチと、お財布がなくなっていました」
「なるほど。それで、直接警察に行かれなかったのはどうしてです?」
 女は恥ずかしそうに言った。
「交番、と言うか、警察署がどれだか判らなくて。前もって勉強して来た訳じゃなかったから、どこに警察があるのか判らなかったんです。地図はパスポートと同じ場所に入れていたんです。言葉も上手く話せないし、近くに人もいなくて。それで、大使館の場所だけはちゃんと覚えていたので」
「幸いでしたね。でも、緑の四葉のクローバーのマークを見かけませんでしたか?あれは警察のマークですよ」
「あ、見ました。・・・・・・そうだったんですか」
「困ったお嬢さんだ。旅先の警察と病院のマークくらいは覚えておいた方がいいですよ」
「すみません。そうですよね」
 女は恥ずかしそうに両手で頬を挟んだ。
 サトルはテーブルに出されていたティーカップを見る。空になっていた。
 立ち上がりながら言う。
「あなたに怪我はありませんでしたか?」
「あ、はい。大丈夫です」
「それは良かった」
 サトルは自分のオーク材の机に移動し、厨房に電話をかける。
「コーヒーを二つ頼むよ」
 電話を切って、うっかりしていた事に気付いた。
「大事なことを忘れていました」
「なんでしょう?」
「あなたのお名前をまだ伺っていない」
「あら、本当だわ」
 女は涼やかに笑い、自分の名はナオミだと答えた。

 それから警察が来て、ナオミから事情聴取を行い、被害届の書類を揃えて署に帰って行った。
 二人は再び向かい合って話をしていたが、ナオミの表情は始めよりも不安の度合いを増していた。
「困ったわ」
 ナオミは言った。
「本当に、パスポートがなければホテルに泊めてもらえないんですか」
「ええ、本当ですよ。見るからに外国人である場合は、必ず身分証の提示を要求されます」
「どうしよう・・・・・・」
「この国に知人はいないんですか?」
「いません。本当に気が向いて来ただけなんです。有名な観光地ではなく、のんびりしていて、チップの習慣がない国を探して。だって、ああいうのは慣れていないと恥ずかしいでしょう?それでルル王国を見つけたんです」
「そうですか。しかし再発行にも少し時間がかかりますからね。でも心配はいりませんよ。ここにお泊まりなさい。部屋を用意させましょう」
「えっ、大使館に?いいんですか?そんなこと」
「当然です。邦人の保護は外交官の職務です。路頭に迷ったあなたを追い出すとでも思いましたか?」
「でも、大使館に泊まるような場所ってあるんですか?私、海外旅行もそんなに沢山している訳じゃなくて、大使館に来たのだって初めてなんです。どういう施設なのか、よく判っていないくらいで」
「大使館は、大使が駐在国において公務を執行するところです。ここにも客間はありますが、隣に住居用の公邸があります。部屋はそちらの方に用意してよろしいですか?何しろ、使用人はすべて公邸の方に詰めていますので、お世話するのにその方が都合がいいんです」
「私は、泊めていただけるならどこでも構いません。でも、何だか悪いみたい」
「この施設は全て税金で作られているんです。気兼ねは無用ですよ。私だって、税金で養われているんですから、あなたはどんどん私をこき使うべきだ」
 ナオミは弱ったように首を振る。
「そんなわけには行きません。あなただって、大使としてちゃんと働いてらっしゃるのに。私なんかには出来ない仕事だもの」
「人付き合いの上手い人間なら誰でもできる仕事ですよ。こと、ルル王国ではね」
 サトルはナオミの声や仕草を気に入っていた。
 久し振りの同郷の女であることもそれを手伝っただろうが、今までにもパスポートをなくしてここを訪れた女はいた。しかし、心は少しも動かなかった。確かにナオミは、サトルの心を掴み始めていた。普段は言うこともない本心を、サトルは少し話したりもする。
「どうして、この国はことにそうなんです?」
「暇なんです。ルルは、我が国ともとても良い友好関係を保っているし、そもそもここが平和な国だし。あまり大きな声では言えないが、私はここに来てから大した仕事をしていない。今日みたいな特別の仕事をもたらしてくれたパスポート泥棒に、思わず感謝しそうなくらいで」
「まあ、酷いわ。私、とても怖かったのに」
 ナオミは怒ったように言って、それでもすぐに笑い出した。
「大使って面白い方ね。私も、引ったくりに感謝した方がいいのかしら?あなたとお話していたら、何だか楽しいわ」
「気に入っていただけて嬉しいですよ、ナオミさん。私のことは名前で呼んでいただいて結構です。あなたが嫌でなければですが」
「サトルさんと呼ぶの?ちょっとそれは、馴れ馴れしい感じがするわ・・・・・・」
「これは、すみません。私は既にあなたを名前で呼んでいました」
「私はいいんです。・・・・・・判ったわ。ここは旅先だし、いい記念になるわね。本国にいればお会いする事もなかっただろう大使と、名前で呼び合うなんて」
「それでは、ナオミさん。記念の手始めに食事に出かけませんか?ここでの夕食もいいですが、せっかくだから美味しいルル料理を出すレストランにご案内しましょう。荷物はこちらで部屋の方へ運んでおきます」
「え、でも」
「安心してください。これは私の給料でご馳走しますから。決して税金を流用しないと約束しましょう」
「そういう意味ではなかったんだけど・・・・・・。ええ、判りました。お言葉に甘えます」
 二人で執務室を出たところをクラウルに呼び止められ、サトルは廊下の隅に追いやられてしまった。
「閣下。パーティーの予定をお忘れでは?」
「忘れていないよ。出先から行くから大丈夫。そうだ、ワインを馬車に積んでおいてくれよ」
「ナオミ様はどうされるんですか」
「付いて来てもらおうと思ってるよ」
「まさか!」
 クラウルは思いがけない自分の大声に驚いて、口を手で押さえた。
 離れた場所でナオミがこちらを窺っている。
 サトルは「心配いらない」と言う風に手を振って見せた。
「ナオミが驚いてるじゃないか」
「驚いてるのは私の方ですよ」
 クラウルは慎重に、小声で叫ぶ。
「何か不都合でもあるのか?」
「今日のパーティーは皇太子も来られるんですよ?今日出会ったばかりの女性をその場に連れて行くなんて、気は確かですか?」
「平気だよ。私以外の私の国の人間に会った事のない人が大勢いるんだよ。きっとナオミは人気者になるさ」
「何を呑気なことをおっしゃってるんですか!そもそもナオミ様は承知されたんですか?」
「まだ何も言っていない」
 クラウルは出てくるかと思うくらい目を開いた。
 サトルは少し笑いそうになったが、我慢して彼をなだめる。
「大丈夫だったら。言って彼女が嫌がれば、馬車で先に帰ってもらうよ。その時は部屋に案内してあげてくれよ」
「そんなことは当然です。でもその前によく考えてください。ナオミ様はいわば一般市民でしょう」
「何か問題かい?わが国に身分制度はないんだよ」
「判っていますが、しかし」
 サトルはクラウルを放って玄関に歩き出した。
 ナオミの背を押して外に出る。
 クラウルはナオミの前で話を出来ないのでそわそわしながら後を追ってくる。
「か、閣下、お話を……」
 玄関を出るとサトルは、心配顔のクラウルとナオミを気にもせずに、監視小屋に向かって大声を上げた。
「誰か、馬車の用意を!厨房にも連絡してくれ」
 本来なら警備員にそれを頼むのはクラウルの仕事だった。あるいは厩へ直接電話をするが、それもクラウルの仕事だ。
 警備員は閣下直々の指示に慌てて小屋から飛び出し、一礼して厩へ走っていく。
 サトルはクラウルをやっと振り向いた。
「すまない。君の仕事を奪ってしまった」
「も、申し訳ありません。しかし、私めの話も聞いてください、閣下」
「心配要らないと言ってるじゃないか。モルガ女史の主催なんだ。彼女はさばけた人だよ」
「判っていますが」
「君もナオミさんのことを気に入ってるみたいじゃないか」
 本人の前で言われて、クラウルは珍しく赤面した。
 サトルはきょとんとしているナオミに言う。
「この御老体はとんだ堅物でね。客にも滅多に愛想のいいところを見せないんだよ。それが君には妙に優しいようなんだ」
「か、閣下!御老体とは聞き捨てられませんな!」
 クラウルは苦肉の策に出たようだ。ナオミのことは棚に上げ、年寄り扱いされたことのみに怒りを向けるふりをしている。
 サトルは笑った。
「ごめん、ごめん。とにかく私は行くからね」
「じゃあ、誰かを付けて・・・・・・、ああ!まったく!どうしてこの大使館には参事官も書記官もいないんだ!だいたい、閣下が秘書を付けないからいけないのですよ!」
 感情的になり過ぎてクラウルは少し迷走している。
 その様子がサトルには楽しかった。
 それで、彼をなだめることに専念して馬車の到着を待った。

 馬車の中ではナオミが申し訳なさそうな顔で言った。
「仕事がお忙しかったんじゃないんですか?」
「いいえ、そんなんじゃないんですよ」
 二人は馬車の中や夕食の席で、お互いの日常的な出来事や趣味について話し合った。そしてその後でサトルが自分の企みを白状すると、ナオミは大いに驚いた。しかし、パーティーには興味があるようだった。
 と言うのも、サトルはまだパーティーの全容を明かしていなかったのだ。この国の皇太子が来るなどと言ってしまえば、ナオミはきっと緊張するので帰ると言い出すだろうと、短い会話の中でサトルは判断していた。
 彼女が行く気になりかけたタイミングを逃がさず、サトルはナオミを洋服店へ誘う。ナオミはドレスなど着たことがないと言って、初めのうちは遠慮して帰りそうな雰囲気だったが、サトルの柔らかな強引さについには負けてしまった。
 腹を決めると、彼女は堂々とした様子でドレスを着こなした。Aラインのドレスは彼女の可愛らしさを引き立たせ、とてもよく似合っていた。サトルも彼女に合わせて服を買い、二人は補正のために三十分ほど店内のラウンジでくつろいだが、その間にもサトルは詳しい話はせず、モルガ自身が大学教授なので、招待客も学校関係者が多いだろうということだけを話した。


前 腐った祝祭 第一章 3|mitsuki (note.com)

次 腐った祝祭 第一章 5|mitsuki (note.com)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?