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小説|朝日町の佳人 14

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 あの屋敷は昔からあるものだったが、長いこと人は住んでいなかった。
 物心ついた時には建っていて、一時期人が住んでいたような記憶もおぼろにあるのだが、それがどんな住人だったかはすっかり覚えていない。
 もっと小さい頃、何のわだかまりも知らずに駆け回って遊んでいるかすかな記憶の中に、広い原っぱがあった。
 今近所を見渡しても、あんなに広い野原は見当たらない。
 となれば、それがあの屋敷が建つ前の土地だったのかも知れない。
 
 その、ほとんど空き家状態だった屋敷に、五年前、沢口一郎が引っ越してきた。
 当然町の人間は喜んだ。
 どんな家でも、空き家というのはその土地に住む者達にとって歓迎できないものなのだ。
 留守の間にどんな人間が入り込むとも知れないし、動物が住み着くことだってあるだろう。
 全くの無人でも、何かの手違いでどんな事故が起こるか判らない。
 だから出来るだけ、戸建てであろうとアパートの一室であろうと、人が埋まっているに越したことはないのだ。
 それが、やってきたのがあの沢口一郎というのだから、全く問題はなった。
 あんなに健全でお人好しな人間は、今まで見たことがないくらいだ。
 でも、そんな男が、何故一人で引っ越してきたのだろう?
 五年前、恋人との料亭通いをぱたりと止め、引っ越した先に、その彼女の姿はなかった。
 
 百合がぶすっとぶすくれて、段ボール箱に頬杖をついている。
「その可愛くない顔、沢口さんにも見せてやったら?」
「ふん。それじゃあもう、話は決まってるじゃないよ」
「なにが?」
「一郎さんのことよ。五年前にその彼女だか何だかと別れたのよ。それで、失意のうちに家を継ぐ気にもならなくて、弟に身代譲って一人ここで暮らし初めたんだわ。だけど、その彼女だか何だか」
「カナエさん」
「煩いわね。聞きたくないの、そんな名前。とにかく、その彼女だか何だかを今でも忘れられなくて、ずっと独り身でいるんだわ。可哀相な一郎さん。愛していた人に裏切られて心が傷付いてるんだわ。その想いを断つことができなくて、私みたいに可愛い女の子に言い寄られても、その傷付いた心はまるで怯えたキツネリスのように」
「あのね、カナエさんが沢口さんを裏切ったかどうかは判らないだろ」
「だって、それが一番理に適った解釈じゃない」
「何が理に適うだ。そういうのは当て推量って言うんだ」
「ふん」
「でも、その弟云々って何だ?弟がいるのか」
「知らないの?弟も妹もいるんだから。三人兄弟の一番上なのよ、一郎さんは」
「へえ」
「僕より弟の方が向いていると思ったから、全部任せてしまったんですよ。って言ってたけど、そんな理由があったのね」
 百合は、その時は弟も驚いていたし、僕も無責任が過ぎるかと気が重かったのは事実ですが、今では適任だったと思っています。と、沢口氏の声真似なのか、落ち着いた口調でセリフを続けた。
 
 ここは叔父が住んでいたんですよ。
 ずっと昔のことだから、もしかして百合さんは、まだ生まれていなかったりするのかな?
 
「叔父さんの?あの屋敷が?」
「うん。そう言ってたわよ」
「そうだったのか」
「健ちゃん、覚えてるの?」
「いや、あんまり。誰かが住んでたような気はしてたけど」
「まあ、誰かは住んでたでしょうね。初めから空き家なら、建てる意味ないもの。でも、こっちの学校に子供を通わせる為の、一時的な仮住まいだったらしいわよ。私立の学校が嫌で、公立だとここの校区の学校が良かったんだって」
「へえ」
 ただそれだけの為に家を建てるなんて、金持ちって訳が判らない。
 大体、身代を弟に譲ったと言いながら、あの裕福さ加減はいったい何なのだろう。
 お余りの財産が多過ぎやしないかという話だ、まったく。
「あーあー。でも、困っちゃうな」
「なにが?」
「だって、そんな悲しい思い出があったんじゃ、あの繊細な一郎さんのことだもの、私に心を開いてくれるのは、きっとずっと後のことね」
「図々しいな、相変わらず。知らない間に、百合に心を開く予定になってるじゃないか」
「開いてくれるわ。私の真摯な想いに心を打たれない男なんて、存在する訳ないもの」
「存在してると思うけどな。第一そんなことにエネルギー注いでないで、就職活動に身を入れたらどうなんだ」
 百合が再びぶすっとなった。
 
 百合は去年、勤め先の会社が営業不振を理由に希望退職者を募ったところで手を上げ、仕事を辞めていた。
 それ以来、週に三日という呑気なシフトで、喫茶店のウェイトレスというアルバイトをこなしている。
 友人の結婚の祝い金に苦労するのは当然だった。
「百合のはつまり、野望だな」
「何よそれ?」
「沢口一郎を籠絡して、自分は楽をしたいんだ」
「ちょっと、どういうこと、それ」
 椅子の背もたれに体を預けて背伸びをしていた僕は、百合の語気の荒さに驚いて振り向いた。
 百合は立ち上がり、真面目にこちらを睨んでいた。
「え、どういうって、そういう……」
「つまり私が、玉の輿を狙ってるだけの阿保な女だってこと?」
「いや、阿保までは言っていないぞ、僕は」
「つまりは、そう言いたいのね?判ったわ」
 そう言うと、百合は僕の部屋を出て行った。
 どたどたと階段を降りることもなく、極静かな退場だった。
 しばらくして、母が珍しく部屋に入ってきた。
 妙にソワソワしている。
「ちょっと、あんた、百合ちゃんに何かしたんじゃないでしょうね」
「な、何かって何だよ?人聞きの悪い。何もしてないよ」
「だって、百合ちゃん泣いてたのよ?あんた、何したのよ!」
 いきなり母から背中を叩かれた。
 
 泣いていた?
 あの百合が?
 あの、二メートルのブロック塀から平気で飛び降りて、怖がって飛び降りられない僕を後ろから突き落とそうとしたあの百合が、泣いてただって?
「まさか」
「まさかじゃないわよ!目うるうるさせて、お邪魔しましたって言ったのよ!何したのよバカ!」
 今度は連発だった。
 日頃の鬱憤が溜まっているのか、容赦なく叩くそれは、いくら母の体が僕よりずっと小さかろうと、その手が僕よりうんと小さかろうと、関わりなくしたたかに痛かった。
 僕は椅子から立ち上がって部屋を逃げ回る。
 母はついてくる。
 かなり恐ろしい。
「ちょっ、止めて、ストップ、本当に痛いから」
「もう、百合ちゃん、家に来てくれなくなっちゃうじゃないの!バカ!あんたの部屋なんかに入れなきゃよかった。どうするのよ、よその娘さんを苛めたりして!」
「苛めてないって!落ち着けよ、だから。喧嘩しただけだって。ただの口喧嘩!」
「女の子相手に大の男が喧嘩なんかするんじゃないわよ!バカ!あんたなんかもう勘当よ!出ていきない!百合ちゃんが許してくれるまで、うちの敷居はまたがせないからね!」
 なだめようとする僕を押し退け押し退け、母はずんずんと迫ってきて、あれよと言う間に僕は家の外に放り出されてしまった。

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