小説|朝日町の佳人 15
母の危惧していたように、百合がそれきり訪ねてこなくなってしまったのかという事について、実家出入禁止を食らっている僕にはまったく情報が入ってこなかったのだが、妙な経緯で、母は百合を見かける度に彼女に声をかけ、百合は相変わらず度々招きに応じているという事実を知った。
それなら僕にも何らかの連絡を取り、出入禁止を解いてくれればいいものを、そんな気配すらないというのだから、もしかしたら僕は橋の下で拾われた子供なのかも知れないなどという、懐かしい疑惑をふと心に思い浮かべてみたくもなる。
とにかくもその経緯というのは、諸般の事情から自炊を余儀なくされた僕が、会社帰りにスーパーで購入した冷凍うどんと天ぷらを入れた自前の買い物袋を片手にぶら提げて歩いている時のことだ。
ちなみにこの買い物袋というのは百合の御手製で、薄い黄色に水色の大きな花模様という見た目には涼しげな薄手の綿素材の手提げ袋である。
薄く折り畳むことが出来るからいつでも持ち歩けるだろうと、百合は偉そうに言って僕にこれを押し付けたのだが、だからと言って彼女に向かい「まあ、手で縫ったの?裁縫が好きだなんて家庭的でいいわねえ」などと家の母のように褒めるのは早計というものだから気を付けた方がいい。
何しろこれは、買い物袋は買った物を入れる袋だという正当な概念が欠如している代物だからだ。
丸っきりの強度不足で、二リットルのペットボトルを入れることができないのだ。
当初、僕はこれに二リットルのスポーツドリンクと卵とを一緒に入れたばかりに、持ち手が本体から外れ、玉子を半壊させるという痛手を負っている。
僕は健気にもそれを自分で修復し、以後軽い物専用の買い物袋として使用していた。
それをブラブラさせながらアパートに向かっている途中、一軒の古い二階建ての家から犬っぽい鳴き声が聞こえてきた。
っぽいと言うのも、それが自然な鳴き声に聞こえなかったからだ。
どことなく嘘っぽい、機械的な雑音の混じった鳴き声だった。
その家の前に来ると、一メートルほどしかない低い割り竹の垣根の向こうに、築云十年だろう建物と小さな庭がよく見えた。
庭と言っても隅っこに金木犀が植わっているだけの飾り気のない平らな空き地と言ったようなものだが、その庭に向かって縁側の窓が開け放されており、其処にこの家の主のお婆さんと、何故か沢口一郎が、並んで腰を降ろしていたのだ。
そして庭に目を向ける二人の間には、薄茶色の犬のぬいぐるみが置いてあった。
僕が足を止めると、二人はほとんど同じ速度でゆっくりと顔を上げた。
そして目が合い、沢口氏が微笑んで「こんにちは」と挨拶をする。
僕が同じ挨拶を返すと、お婆さんはニコリと笑って、「麦茶飲まんかね」と言った。
よく見れば彼女の横には盆にのった瓶の麦茶入れと麦茶の入ったガラスのコップが、沢口氏の横には同じく麦茶のコップが置いてある。
沢口氏はお婆さんに同調するように頷くし、断る理由も思い付かなかったので、僕はそれじゃあとか何とか呟きながら、玄関の方から回って庭に入った。
玄関脇には内田という肉太に彫った文字に墨を流してある分厚い木の表札が掛けてあった。
僕が近付いていくと内田のお婆さんは麦茶入れを手にしていたが、沢口氏が姿を消していた。
あれと思いながら再度こんにちはと挨拶をしていると、廊下の奥から沢口氏が歩いてきた。
手に氷入りのコップを持っているところ見れば、僕のためのコップを取りに行ってくれたのだろうが、家の勝手を知る程にこの二人は親密なのかと、僕は少し驚いた。
沢口氏の勧めで僕は彼が後ろに避けたぬいぐるみのいた場所に腰を降ろし、買い物袋は踏み石の上で脚の間に挟んで置いた。
内田さんが麦茶を注いでくれる。
麦茶は香ばしくて味も良く、会社帰りの渇いた喉を充分に潤してくれた。
「暑かったじゃろ」
と、内田さんは言った。
「ええ。生き返りました。ありがとうございます。お二人はよくこうやって、お茶を飲まれるんですか?」
「いえ、今日が初めてですよ」
と、沢口氏が応える。
「市の広報を配りに来たんですが、それから話し込んでしまって、図々しくお宅にまで上がり込んでしまったという次第です」
「そうだったんですか」
相槌を打ったはいいが、内田のおばあちゃんのことは、名前だけは判るというぐらいでよくは知らなかったので、それから先に話題が思い付けなかった。
僕は自分の相槌に続く沈黙を放って置いていいものなのか心配になって、沢口氏の顔を覗いた。
彼は落ち着いた様子でふっと笑うと、少し前屈みになり、僕を通り越して内田さんに声を掛けた。
僕は少し後ろに仰け反った。
「内田さん、彼は田中さんの息子さんですよ。判りますか?」
内田さんは皺の多く細い目を、更に細めるようにして僕の顔をじっくり見た。
「はいはい。そう、田中さんの。こんにちは」
僕は慌てて「あ、こんにちは。田中健治です」と、頭を下げた。
「言われて見れば、ミネさんにちいと目元が似とるわ」
ミネというのは十年も前に死んだ僕の祖母の名だ。
「はあ、そうですか」
「家の人はみんな元気かね」
「はい、お蔭さまで」
「そう」
内田さんの喋り方は、ぽつぽつと一語ずつゆっくり置いていくような感じだったので、話しているうちに、会話中の多少の沈黙は気にしなくてもいいようだと、コツのようなものを掴むことができた。
それでのんびり麦茶を飲んでいると、『キャンキャン』と後ろの犬が鳴いた。
鳴いたのはぬいぐるみの犬で、初めに聞こえた鳴き声の正体だ。
振り向いて、ゴールデンレトリバーモドキのそれを眺めていると、沢口氏が言った。
「音をたてたり触ったりすると、鳴くみたいですよ」
「へえ、そうですか」
「でも、センサーが上手く働いていないようで、少し反応がずれているんですよ」
「ふうん。ぬいぐるみじゃなくて、ロボットだったんですね」
「そんな感じですね」
沢口氏は僕が麦茶を飲んでしまうと、自分と僕の空のコップを持って廊下の奥に消え、そして戻ってきた。
「それじゃあ、内田さん、私たちはそろそろ帰ります」
「そうかね」
「また明日、伺いますね」
「はいはい。引き止めて悪かったね」
「いいえ、それじゃあ」
沢口氏に促がされ、僕も立ち上がった。
「ごちそうさまでした」
「また来んさいね」
「はい。失礼します」
僕は庭を通って玄関に回ったが、沢口氏は玄関から家に上がっていたようでそこに靴は置いておらず、再び廊下を歩いていった。
玄関前で待っていると、引戸が開いて沢口氏は出てきた。
手にはモスグリーンのチェック柄の厚手の生地の手提げ袋を持っていて、中には広報紙の分厚い束が入っていた。
「あれ?まだ配ってなかったんですか」
「ええ」
沢口氏は弱ったような笑みをこぼし、小さな門を抜けて通りに出てから言った。
「実を言うと、かれこれ二時間ほど、ああやって縁側に座っていたんですよ」
「二時間も?」
「続きは明日配ることしにて、今日はもう帰ります。九月一日号だから、まだ二三日猶予はありますから」
「慌てることはないでしょうけど、内田のお婆ちゃんと何をそんなに話し込んでたんですか?」
「話し込んでいたというか、まあ日常的なことばかりです。お天気の話、この辺りに新しく建った建物の話、あそこには昔駄菓子屋があったんだとか、それにそうそう、田中さんのおばあちゃんの話も出ましたよ」
「どんな話しです?」
「体がまだよく言うことを聞いていた時分には、町内での日帰りのバス旅行によく出かけていたらしくて。それで私があなたの事を持ち出したら、ミネさんもよく来ていたとおっしゃっていました。まあ、それくらいのことだったんですが。何と言うか、話の量としては、そんなに沢山はしていないんです」
「ゆっくりでしたからね」
「ええ。私も急ぎの用のない身ですから、初めはのんびりしていたんですが、気付くとかなり時間が経っていて、いつ引き上げようかと少し困っていたところだったんです。そこに田中さんが通りかかってくれたので、助かりました」
「そうでしたか」
「お話しするのは少しも構わないんですが、そろそろお腹も空いてきていましたので」
「もう六時ですからね。でも、明日も伺いますって、先刻言ってませんでしたか?」
「ええ。明日、あちらの二階のお掃除をする約束をしたんです」
「掃除、ですか?」
「はい。内田さん、あまり脚がよくないそうで、最近は滅多に二階にも上がらないというお話しだったので」
「それで、沢口さんから『だったら私が、お掃除して差し上げましょうか?内田さんが良ければですが』とか、言っちゃった訳ですね」
「まあ、そんなところですね」
「沢口さんらしいや。ところで、先刻から気になっていることが一つ」
「何でしょう?」
「その、妙に頑丈そうな布の袋、もしかしたら百合から押し付けられたものじゃないですか?」
沢口氏は笑顔で答える。
「よくお判りですね。さすがは幼馴染だ。広報配布用にと、ちょうどいいサイズの物を作って下さったんです。それで、私も気になったんですが、田中さんの持っているその袋も、百合さんの手作りじゃないんですか?」
「そうですよ。僕はですね、今気付いたんですが、どうやらあなたの実験台に使われたらしいんです」
「実験台?」
「この買い物袋、凄くやわなんですよ。あいつ、どうも試作品を僕に持ってきたみたいですね。沢口さんの広報用手提げが本命だったんだ。クソ、あいつ」
時間が経った為にすっかり冷凍うどんの周りが湿ってしまった買い物袋を、僕は忌々しい気持ちで見つめた。
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