教師の多忙化を忌避する方法
朝活9日目。
とても簡単。自分で忙しくない仕事量に調節すること。以上。
でもこれができない。理由は3つ。(他人に伝えるには3つにするのがいいらしい)
1、業務内容の境界がはっきりしない
2、調節を悪用する奴がいる
3、そもそも教師としての到達点を設定できる人間がいない。
1と3はちょっと重なっている気もするが、言語するのに重要だろうと感じる。
さまざまなご意見があったり、努力をなされたりする方をお見受けするが、遠い昔にとある組合の教師の多忙化調査に関わった経験を踏まえて言わせていただければ、これは制度や法律、システムだけの問題よりは個人の匙加減でなんとでもなる問題であるとする方が納得できる問題だと思う。労基法とか社会正義とかから言って真っ当に正しいかどうかは疑問だが。
大きな問題が一つ。出世しにくくなることである。ただこれを回避できる人間がいることがより問題をややこしくしている。この話は2と3にも関わるがバイト感覚教諭にとっては小遣い稼ぎで仕事をしているし、そもそもウデのある教師になる必要がないので出世できない、ウエの評価が上がらないことはさしたる問題にはならないのである。ややこしくないじゃん。どこにでもいるジジババじゃん。
イヤイヤ、こいつらは自分たちの存在を正当化するためにあの手この手を使ってくるのよ。グループ化して他人を貶めたり、足を引っ張ったり、自分が仕事してるかのように喧伝したり、他人や事象を評論したり、自分がいかに大変かを語ったり。いるでしょ、どこの学校にも圧倒的に作業量が少ないのに大所高所から論評したがるヤツ。最近若手にもいるのでビビります。たまに出世するのが余計ビビります。どういう選考基準なんでしょうか?
出世したりうまくいったりするとこれが文化として染み付いてしまうんです。教師文化の悪い側面として機能する部分です。悪い学校にはこの悪い文化が幅を利かせていることが少しお付き合いすれば見えてくるはずです。
ぜひ保護者の方には良い教師と悪い教師の見極めをお願いしたいところです。
当たりハズレではないです。ハズレが後程良い機能を果たした事例は枚挙にいとまがない。すでに反面教師という言葉があるように。悪い教師は仕事をしないので子どもにとって空気のようなものです。ハズレの方が子どもに影響があるので悪く見えますが文化込みで言えば悪い教師の方がタチが悪いし学校全体を悪くしていきます。そして良心的な教師を悪の道へ引きずりこみ、入らない人間を排除し退職・休職・転職・転勤に追い込みます。どう大変厄介でしょ。
ただこの問題にはさらなる厄介があるのです。哲学的な二面性、二分法の弱点です。簡単に言ってしまえば分けること自体がさらなる問題を引き起こすということです。2つに分ければ分断や対立が生まれ、隠蔽作用が働き、どこで分けるかという議論がはじまってしまいます。
なのでこないだあるところで新しい理論を提唱してみました。この教師文化を回避するための考え方です。別に新しくもないのですし、まだまだ深まりも足りません。「流動性の高いグループ」の構築というものです。単純に言えば、教師個人が意見を頻繁に変えてもそれを受け入れてくれるグループがあり、液体のような流動性でグループを渡り歩いたり、グループを作ったり進化させたり壊したりすることができ、その時々でプライオリティの高いことを個々人が内面化するチャンスが溢れている状態を常時用意するというイメージです。
人は常に学び続けることでその立場を変えていく自由が保障されるべきだと思います。なぜか今教育現場は固定された文化的価値観で、個人的な縛りで不自由になってしまっています。多分これは私が今後「権力」という言葉でまとめて可視化したい化け物です。ここから自由になれれば、教師の多忙化が解消されるということの入り口を書いてみました。1と2と3の言語化はまたの機会に。せっかく3つにしたのに教師文化の話になってしまいました。
最後までお読みいただきありがとうございます。