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作る側でいないと…と言う焦燥感

【最初に】
立ち寄ってくださりありがとうございます。本人の現在進行形の体験談を交えた悲痛な心の叫びと、
まるで『気が狂いそうな中で理性を保ち、闇落ちから留まろうとしているバーサーカー』が、比較的正気の時に書いた様な文章となっています

こう言う考えの人も、いるんだ…
と言う温かい目で読んでもらえたら嬉しいです


【本編】

何かを作らなくては…
コンテンツとして自分の手で、
何かを生み出さなければ…

そんな気持ちがヒシヒシと心の中に浮かんでは焦燥感として変わっていくのを嫌でも自覚する事がある

「絵を描かなくては」
「文章を…1行や2行でも書いて、1冊でも良いから、何かを自分の手で書いて、造って残さないといけないのに…」

そう言った焦りはあるのに、
焦る気持ちだけが先行し、
描きたいのに描けない、何かを創りたいのに創れない事が続く日がある

そんな気持ちと焦燥感が胸を圧迫してくる、元々自身の性格的にもそう言った事を考えやすい性分なのかもしれない。

そう言った「何かを作り出さなければ…」と言う焦燥感を抱いてしまった日には、気持ち的にどうしても明るく過ごす事ができず、趣味をも楽しむ余裕すら無く、むしろそれらが自身を間接的に苦しめる原因となり得て、
結局はコンテンツの何もかもを観たく(したく)無くなり、かと言って自身が何かを作れると言う確信すらなく、何もできずに八方塞がりになってしまう。

勿論、造らない側やコンテンツを楽しむ側、同じ創作をする身である方の中には、全くそう言った焦燥感を感じない人も居ると思うし、
そもそもそう言う気持ちを抱いた事がなく、そう言った焦燥感を理解できない人も当たり前に居ると思う。むしろそれが大半かもしれない。

個人的には、そういった焦燥感や無駄な罪悪感を感じない人達がとてつもなく羨ましく、思考的にも心理的にも、創作する身としても健康的なんだろうなと、良いなとさえ思う

そんな消費者側でいる事に
罪悪感を感じない方の中には、
冷静に考え、意見として
「必ずしも、つくる側に居なくても別に良いんじゃない?」
「ゲームをしたり、アニメを見て過ごすだけでも良いじゃない、製作者からしてもそう言った存在が居る事は、ありがたいと思うし」
と思う方もいるかもしれない。

そう言われると、凄く正論だと思うし正論以外何者でも無いと思う
冷静に考えればそうで、

私自身創作している身からしても、
ファンや観てくれる人が居てこその作品でもあるし、
読んで貰えたり、観てもらえる事自体がとても嬉しく有難い事だなと思えるので、見る側である消費者はとても大切だと思う。
需要と供給としても、そう言う冷静な意見も理解できとても個人的にも共感できる。

ただ、そういった消費者や見てくれている人に対しての感謝と、「消費者でいる事によって、部分的にも金銭的にも制作者を支えられているかもしれないから、罪悪感を感じなくて良いと思う」と言う肯定的な意見を頭で理解していても

自身の感情的には、「自身が創作せずに消費して過ごしている事」にどうしても納得がいかず、消費者側でいて何もしない自分自身が嫌なのもあり

「消費者としてゲームをやり続ける」「好きな動画を見る」事に対する罪悪感がコントロールできずにいる。

そう言った不安に幾度となく苛まれる事があり、消費者でいるのは趣味として「自分にとってやりたい事」であるはずなのに、
「無駄に抱かなくて良い罪悪感で、好きなコンテンツを心から楽しめない」と言う事実は自己矛盾やジレンマを感じそんな面倒くさい自身にかなり疲弊してしまう。
(頭では正論を理解してるけど、感情が優先してしまって自身の気持ちが決まるので、例えるならば、やっぱり理性のあるバーサーカー…はたまた、バケモンになりそうで留まっている様な…イメージに近しいのかもしれない…※私の心理的に)

それは、酷い時には好きなものを観て眺めているだけでも「観てるだけで、良いのかな…」と言う抱かなくて良いはずの、罪悪感すら感じる。

「いやそんな事、端から考えなくても思わなくても良いのかもしれない…」

何回もそう思った、でも頭では理解していても、焦燥感と罪悪感は勝手に襲ってくる。
勝手にも湧いてくるものでコントロールする事ができなかった。

そんな意味のない罪悪感と、負の感情を私は、どう受け止めていけば良いのだろうか?そんな簡単に気持ちを切り替えて受け止めきれるモノなのだろうか


Twitter(X)に流れてくる誰かが描いた絵が目に留まっても、YouTubeで流れている誰かが作成している動画がショートとかで流れてきても、何故か辛くなる。

辛いけれど、純粋にコンテンツとして好きだから観てしまう。
(実際は暇つぶしするために見ちゃうだとか、好きは言い訳に過ぎない事もあるのだろうけど)

そんな他人が画面の中で楽しそうにしている動画や、描いた人自身の好みや世界観が表現されている素晴らしい絵などを見ていると、

「これ造るの楽しかったんだろうな…なんか見てて分かる…」
と思えたり
「こんな素晴らしいコンテンツを造って…さぞかし達成感があるんだろうな…」と、そんな周りが酷く楽しそうで羨ましく
かと言って私がそんな素晴らしい作品を作れるわけでもないので、
なんだか自分じゃ届かない、
自分がやりたかった事、楽しく創りたかったけど、私はそんな素晴らしい発想と世界観を持ちあわせてないので、私だったら生み出せないであろう創作物達を、最も簡単に、目の前に出されて見せられている様で、

充実していて楽しそうにしている生産者側や創作者を見ては、比べ完全に自分が何も出来ないとより浮き彫りになり、自覚させられコンプレックスを抱いてしまう。

どうかこれを読んで、あまり責めないでほしい、自分にない部分も、自分ができない事も実は分かっている。
分かっているからこそのコンプレックスと消費だけしている事への罪悪感までもあるんだと思う。

そう言うドロドロした事を尊敬すべき他の創作者さん達に向けたくもなかったし、本当はそんな事すら考えたくない。

第一、勝手に消費している側で、
他の創作者さんと自身を比べるのは、
創作者さんにとって失礼で、
烏滸がましいのだろうけれど
無意識に比べてしまい自分が出来てない部分や、自分にない部分を考えてしまう。(インターネットやめろ!!!の典型例かもしれないけど、やめれない)


『そう言った不安やコンプレックスを抱かずに、人が作った尊くて面白い創作物を心から純粋に楽しみたい、もうそれだけに尽きるのに…』

ネットを見ていたら似た様に、消費者でいる事に対する焦燥感と罪悪感を抱く人を見かけたりもしていて、
自分だけでは無い事を改めて実感し安心しつつも、こう言った気持ちや焦りは
いつかは消えてくれるものなのか?

それとも自分が満足するモノを生み出せるまでは続くものなのかな、とは考えてしまう。

いつだったか、過去にその罪悪感と焦燥感に押しつぶされそうになり耐えきれず、そう言った消費側の無産オタクでいる不安感を
趣味で同じ様に二次創作で絵を描いたり、文章を創作している友達に話してみた事があった。

私は「ゲームしたり、アニメを見たりして時間を過ごしていると、とても不安になる事ってない?見る側や、コンテンツを消費する側ではなく、自分も何かを作らないといけないって衝動に駆られてしまうんだよね」

と言うと、その友達はそう言った罪悪感を感じた事がない様で、あまりそう言った気持ちが理解が出来なかったのかもしれない
「消費者側でも良いじゃない?需要と供給だよ」と言われた。
本気で羨ましいと思った

そう言った焦燥感や苦しみを共感してもらえたり、理解してもらえる事は無く、少し寂しさもあったが、何故かそう言われて少しだけ罪悪感が和らぎ安心した。

私は、一々考えすぎだから、そう言う思考で居て意見をくれる事は、ありがたい事で、大事だとも思った。

そして正直な所、純粋にコンテンツを消費者側として楽しめている友達が少しだけ羨ましかった。

にしても私が、消費に対して、無産に対して焦燥感を抱く様になったのは、
いつからなんだろうか、
思い返すと小学生の頃は何も考えずにゲームなどを純粋に楽しめていた筈だった。

どうして私は、コンテンツを消費者として純粋に楽しめなくなってしまったのだろう、きっかけと原因は分からないでいるが、

今となっては小学生の頃に趣味で、何よりも好きだったゲームをするのが1番の罪悪感に変わった、
ただただゲームをして、時間を潰すのが特に怖いとさえも思う。

そんな中、小学生の頃に母にゲームを勧めた事を思い出した
「こんなに楽しいのに、どうして母は一緒にゲームをしてくれないの?」と聞いた事が何度かあった

その度に母は「大人だからかな…子供は楽しめるかもしれないね…」と言っていた。

極たまに、それもあまり記憶に残っていない数回程度の事ではあったが、
珍しく一緒にゲームをしてくれる時があった、私に付き合って母がゲームをしてくれていたが、その様子は何とも言えなかった、ゲームを微塵も楽しんでいる様には見えなかった

それが子供の頃の私にとっては少し不満だった。
大好きなゲームを一緒にして楽しさと楽しい時間を、母と共有したいと考えていた私からして、母が楽しそうじゃないのが、あの頃の私からすると不満だったのだろう。(今考えると、ゲームでよく一緒に遊んでくれたな優しいなと思える)

当時は、「ゲームを楽しめない」と言う母の気持ちを理解できなかったが、
今なら母の心境も分かる気がするし、母も、今の私の様にコンテンツの消費者でいる自分と、無産コンプレックス的な思考を抱えてゲームしていたのだろうか?

「あんなに好きだったゲームを楽しめなくなった」…これが母の言う所の「大人」で、私にとっての「大人になった為の心境の変化」と、「大人になった証拠」だと言えるなら、だとしたらとんでもなく嫌だなと思う

ゲームだけではなく、好きな動画やアニメを観続けるのも辛いのだが、
仕舞いには「こんな事をしていて、自分の為になるのかな」(コンテンツや創作、制作物を否定しているわけでも、否定したいわけでもない)

と言う感情と結論に至り、
自分の将来と時間を連想させられ、そう言った未来への恐怖心も関係し、
焦燥感に変わっているのかもしれない。だから消費者でいることが不安で不安で仕方なくなるのかもしれない。
自己分析してみてそう感じた。

冷静に自己分析してみて、
こう言った不安や罪悪感は、今みたいにnoteを書く行動力になったりと、

私からして、焦りが創作意欲に繋がる事もあるので、悪い事だらけでは無いのかもしれないと思ったりもするのだが…

それでも私の生き甲斐で趣味である
動画や、アニメや漫画、絵を観る事、ゲームする事などの、
消費者側の趣味を楽しめないのは、辛い事には変わりないもので

焦燥感に苛まれる度に
『極力罪悪感みたいなものを感じずに純粋に消費コンテンツや創作物を楽しめる様になりたい…いつか全く罪悪感を感じなくなれば良いのにな…』と思っている。

もしくは、やはり他の…
例えば外に出て、1人でも楽しめて
体を動かす趣味とかを見つけ息抜き程度にも趣味として取り組むしか方法は、無いのかもしれない…(筋トレか?やはり筋肉は解決するのか?はたまた釣りも良いなと最近思ってる)

ただそれでも私は、消費する事に不安を抱えつつも、誰かが造った作品を消費者として楽しみ続けたいし、

焦燥感と、創作に関するプレッシャーや劣等感やコンプレックスに負けずに、

純粋にコンテンツや何かを生み出せる側として、文や絵を書き(描き)続けたり、生産する側でも居続けたいと思っている。極論、創作としても文章を書いたり、気持ちを文字にするで冷静になれるので、好きなのかもしれない。

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