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「自分には実力がないと思っていました」ーー本荘悠亜先生

今回はクラシックピアニストの本荘悠亜先生をご紹介します。本荘先生は国内最難関といわれる桐朋学園大学院大学の修士課程ピアノ科を、2023年3月に修了。現在は主に埼玉、東京、滋賀でピアノ指導を行っているほか、ご自身のリサイタルや演奏会の企画、コンサートのMCなど、幅広く活動をされています。

そんな本荘先生ですが、学生時代は人一倍ピアノに苦しみ、一度はピアノの道をあきらめて、会社員として働いたこともあったそうです。第1回は、ピアノとの出会いから、順調に滑り出したかに見えた幼少期、その後始まる苦しみの日々についてのお話です。

本荘悠亜先生

本荘先生の現在地

――本荘先生は今、ピアノ指導のほかにも、ご自身のコンサートや演奏会の企画など、さまざまな活動をされています。ピアノに苦しみ、迷った時期もあったとのことですが、今は充実した日々を送っている感じでしょうか。

そうですね…。表面的に見せているのは充実している姿かもしれません。でも、裏では後悔や失敗もたくさんあります。企画したコンサートでも、トラブルがあったりして、結構ばたばたしていました。

ピアノ指導に関しては、まだまだ自分の能力を最大限に発揮できていないという感覚です。伸びしろがあるからこそ、そこに向かっていきたいという気もちです。

なんでもそうですが、やはり10年くらいやらないとものにならないと思っています。ピアノは幼少のころからずっと弾いてきましたが、ピアニストとして仕事を始めてからは、まだ1年目。今行っている活動も、どれかに絞ってやっていこうと思っているわけではなく、面白そう、チャンスがありそうと思ったものに、ひたすら挑戦している感じです。

幼少期は「音楽をまるごと好きでした」

――ピアノを始めたのは、いつごろ、どのようなきっかけだったのでしょうか。

家には偶然電子ピアノがありました。ピアノは2歳半から、週に2回通っていました。

――2歳半から、週に2回も!

はい。特に英才教育というわけではなかったのですが、とにかく自分が行きたがったので、週に2回通っていました。両親には、最初はわたしの左利きを直さなければという思いがあったようですが、途中からそれは言われなくなりました。

――ご家庭は、音楽一家だったわけではないのですね。

父は筋金入りのクラオタでした。ただ、昔人間なので、ドイツ三大B(バッハ、ベートーヴェン、ブラームス)を中心に好む。家でドビュッシーを弾いていると「そんなけったいな曲を弾くな」という感じで(笑)。家の中ではクラシックのレコードが、自然と流れているような家庭でした。母も音楽は好きでしたが、おそらくピアノのドの位置もわからなかったのではないかと思います。

――ピアノのどんなところが好きだったのでしょうか。

小さいころは、ソナチネアルバムの曲を聴いているだけでも「こんなきれいなものがあるのかー。なんて美しいんだろう」と喜んでいました。こんなに心が魅かれるものなのだから、みんなもきっと好きなのだろうなと思っていました。ピアノに興味がない人もいるということを、あとで知ることになるのですが。

ぼくは音楽の中身というか、音楽をまるごと好きだったのだと思います。こんなすてきなものが、自分の手から生まれてくるというのは、すごく気もちのいいことだなと。例えば、和声が変化するときに、感情も一緒に移り変わっていきます。そうした美しさを、ぼくは本能的に最初から感じ取っていたのだと思います。

――小中高の間も、ずっとピアノが好きで続けていたのでしょうか。

好きというのとともに、自分の中で向上心が芽生えてきました。引っ越しなどもあり、先生は結構変わりました。小学校1,2年生のころは、生徒をコンクールに出すような厳しい教室に通っていました。とても熱意のある教室で、ピアノを本気でやり始めたのはそのころからです。

思春期、コンクールの功罪

――向上心とは、技術的にもっとうまくなりたいということでしょうか?

コンクールに出始めたのが大きかったです。自分の演奏に点数がつく。そこで賞がもらえる人、もらえない人が出る。運がいいことに、ぼくは小2ですごくいいところまで行ってしまった。全国大会で銀賞、上から二つ目の賞です。本当にまぐれというか、運がよかった。

最初にいい結果が出てしまったがゆえに、それ以降の努力が、全部そこを基準に考えるようになってしまいました。たとえば、結構よく弾けていてもなかなか満足せず、もっと上に行きたかったなと思ってしまう。そういうところを、コンクールですごく刺激されました。

そんな感じで、小さいころはコンクールという場が励みになって、よかったのです。でも、思春期になると、それがあだになってくる。コンクールの悪い側面が自分を阻みだしたのです。それは結構地獄でした。

他者を意識するようになり、目の前にお客さんもいる。完全にガチガチで、とにかく本番でよく弾けない。実力の30パーセントも出せないで終わってしまう。それが5年間続きました。

練習の仕方に問題があったことも、もちろんあります。でも、それ以上に、コンクールというものに過剰に自分を追い立てていたのです。ギャンブルと同じなのでしょうか。失敗、失敗、失敗、と負け続けるほど、次で取り返そうとする。いつしか、次に成功しないと終わりなんだ、という精神状態に陥っていました。それが中学生のころです。

同じ年齢のころ、いつき先生は、佐藤卓史さんと同じ舞台に上がって、立派に弾かれていた(高橋いつき先生のインタビュー記事参照)。ぼくは大阪で同じコンクールに出場して、県内では1位になれても大阪大会ではだめで、5回連続で予選落ちしました。中1から受け始めて、高2まで。5回も連続ですよ。毎回泣いていました。

そのコンクール以外だと、よく弾けていたりもしたのです。でも、毎年そのコンクールの時期が来ると、体も心もカチカチになってしまう。当時から、ほかの人の演奏を聴いたり、頭で分析したりということは好きだったので、どういう演奏が予選を通るのか、聴いているとわかります。どうすればよいかわかるのに、体がいうことをきいてくれないのです。

――中学、高校のころは、どんな先生に教わっていたのでしょうか。

それが、音大の先生だったのです。人の紹介で体験レッスンを受けて、通っていいよということになりました。ふつうは中学生が習える先生ではありません。たぶん、ぼくの実力を認めてくださったのだと思います。

ただ、大学の先生というのは、どちらかというと演奏家であって、未熟な中学生を教える指導者としてはどうか、というところがあります。その先生から得られた音楽性や音楽観は、今もすごく生きています。ですが、抽象的で概念的な話が多く、どうやったらうまく弾けるようになるか、練習方法に関してはふたをした状態でした。でも、中学生の当時はそういうことはわかりません。大学の先生ならいいことを教えてくれるはずだと信じていました。

――先生は、コンクールで弾けない本荘さんにどんなことばをかけてくれましたか。

先生はお忙しい方だったので、本番の演奏は聞いてもらえていませんでした。メンタル的なところは、自分が先生に隠していたということがあります。緊張していることは話していましたが、そこまで本番で動揺して、おかしくなることについては、自分からは相談しませんでした。そんなことは、先生はお見通しだったと思いますが。でも、そこに対するフォローは、正直あまりなかったです。

先生は根っからの芸術家で、中学生がコンクールで弾けなくても、あまり気にならなかったのでしょう。まあ次があるから、くらいな感じで。中学生の生徒の将来について、そこまで向き合って考えるような感じではありませんでした。

――そのころは、将来、音楽の道に進むことを考えていたのでしょうか。

一番好きなのは音楽。でも、現実をみると実力がないと、当時は思っていました。そのときは勉強のほうが得意だったから、自然と勉強の方に流れていきました。父は一流の音楽家しか聴いていないので、音楽の世界では、トップオブトップになれないと食べていけないと考えていたのでしょう。ピアノも遊びとしてしか見ていませんでした。

本荘悠亜先生

大学時代、ピアノとは違う道へ

――コンクールで弾けなくなってしまうことを、ご自身ではどう考えていたのでしょうか。

練習のやり方が悪かったというのはあると思います。でも当時は実力がないと思っていました。

先生との出会いはとても大事です。練習方法ももちろん大事。もっと早い時期にいつき先生に出会っていたら、結果はガラッとかわっていたと思うので、悔やむ思いがあります。

――いつき先生と出会ったのはいつごろでしょうか。

大学1年の終わりごろです。ぼくは高校まではずっと関西に住んでいて、大学生になってから東京に出てきました。1年生の初めはサークルや自炊など、大学生活に慣れるのが精いっぱいでした。関東でピアノの先生を探していて、冬ごろから北浦和のいつき先生のところに通いはじめました。大学在学中は、基本的にいつき先生にお世話になっていました。

――大学時代は部屋にピアノを置けたのですか?

最初は滋賀県出身者のための安い寮にいましたが、窮屈なのと、集団生活に耐えられず。自分で物件を探して、実家にあったピアノを置かせてもらえるワンルームを借りました。

――ピアノは、もしかしてグランド?

はい、グランドピアノです(笑)。クレーンを使って運び込みました。

大学時代も趣味でピアノは弾いていたのですが、結局スランプは継続してしまっていました。少しはましになって、いつき先生の発表会で、リストのソナタとか大曲もそれなりに弾けるようになってきました。でも、心の中では全然だめだなという感じで。当時はいろいろなことに手を出し、就活もまじめにやっていました。それは、ピアノに代わる何かを探そうとしていたのだと思います。

結局そのまま大学を卒業し、就職して会社員として働き始めました。その後、自分のピアノ演奏が劇的に変わるという経験をすることになります。それは、ある先生との出会いがきっかけでした。

第2回に続きます

★お知らせ★ ※こちらの演奏会は終了しました
2024年2月25日(日)に、東京中目黒で、本荘悠亜さん・横山博さんによる「中目黒2台デジタルピアノ演奏会」が開催されます。


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