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書きかけたら、最後まで面倒をみるか。


書きかけて、やめたものは多い。


見切り発車だったものもあるし、書き終えた上で「なんじゃこりゃ」と、見放したものもある。

そんなことをくりかえしているせいで、あることついて「書き上げた」のか「書ききれなかった」のか、記憶がとぶ。

だから、ふと「これを書こう」と思ったとき。
それが、前に書いたことなのか、考えただけで書いてはいないのか、それとも今はじめて思いついたことなのか、というのが分からなくなる。

「あれ?これ前にも書いたっけ?」
「これ、投稿したことあった?」
そんなことを考えているうちに、手が止まる。
書く気が失せる。

手元には、たくさんの書きかけの形跡が残る。


◇◇◇


何においても、こういうことが多い。

たとえば、服。
たくさんあるのに、断捨離もせずにまた同じのを買ってしまう。
子どもの服も把握できなくて、この夏も「次男には半袖がないはずだ!」と急いで買い込んだら、長男のお下がりが山ほどあった。

日用品や調理道具も、古いのやストックをしまい込んで忘れてしまう。
新しいのを買って、手元には二つ。

本もいっしょで、読みかけなのに、べつの本を読み始めてしまって、いつまでたっても前の本を読み終わらない。


ひとつのものを、もっと大事にしなければ。

じっくり吟味して、自分のいちばん気に入ったものをたったひとつ、選べるひとは、かっこいい。

「高い」とか「比較がめんどう」とか言って、目の前のそれで、その場しのぎして。
けっきょく、自分をごまかしきれずに、すぐまた次のものを欲しがる。

こういうのを、卒業したい。
焦っているけど、少しずつしか変われない。


noteの記事も、おなじだとおもう。
わたしは「自分の考えたこと」を、あまり大事にできていない。

考えは、次々わいてくる。
でも、その場で思いついて、書いて、やめて、をくりかえす。
だから、書きかけの残骸が溜まる。
買いすぎた服や、無駄な調理道具と、一緒だ。


もっとていねいに、見つめてあげれば。
下書きの量産をやめられるのだろうか。

考えて、書き出したものは、最後まで面倒みる。
そうすれば、思考も記事も、もっと大事にされるし、「これ書いたっけ?」と忘れてしまうこともないのだろうか。

まだ、答えは出ない。

◇◇◇

記事の下書きといえば、「ストック」のことも、思い悩んでいる。
みんなは、どれくらい記事を「ストック」しているんだろう。

最近は、書き上げて「ストック」しておいた記事も、翌日には投稿する気が失せてしまって、ため込んでしまうことが増えた。

そのときは、自分の心にぴったりだとおもっていたのに。
翌日、翌々日、日がたつにつれて、どんどんその記事と自分が離れていくような気がするのだ。

いま、わたしはこんなこと感じていない。
いまのわたしは、このときのわたしより前に進んでいる。
そんな思いが浮かんでくると、もうその記事を「お蔵入り」にしたくなる。

でも、それは当然だ。
書いたから、進んだのだ。

だから、たとえ「お蔵入り」になったとしても、その記事を書いたことは無駄ではない。
問題はそれを、わたしがどう感じるかなのだ。


とりあえず、もうすこし「自分の考えたこと、書いたもの、書きたかったもの」たちを大切にしてやろう。
それは、自分を大事にすることにもつながるはずだから。

この記事も「ストック」になっちゃう予定だけど、最後には外へ出そう。

いまの自分とはちがっていてもいい。
こんな自分もいた」という記録をのこすのも、書くことの価値のひとつだから。


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