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なにかを「思い出せる」ような文章を。


昨日、「書きたいことは何かなぁ」と悩んで、それをそのまんま記事にした。

そして、今日もまた、それについて考えていた。
わたしが「書きたいこと」は、何かなあ。



考えながら、長男を園に送り届ける。
朝8時。
長男と次男を車に乗せて、家を出る。
踏切を渡って、いつもの道に入ると、その一本道の左側にはヒマワリがならんでいた。


晴天の下、ならぶヒマワリ。
暑くても元気に伸びる子もいれば、うなだれ顔を下に向けている子もいるはずだ。
7月に見たときは、そうだった。

暑いヒマワリ、暑くないヒマワリ。
その光景を忘れたくなくて、見た景色のことを記事に書いた。


枯れないでほしい。
そう書いたヒマワリたちも、今朝、横を通ると、残念ながら、ほとんど枯れていた。
茶色い、カサカサした葉っぱ。
かろうじて、立っている茎。
花だったとはおもえないほど、しわくちゃになった顔。

ときどき、咲くのが遅かったのか、枯れていないヒマワリが挟まっている。
なんだか、肩身がせまそうに見える。
枯れたヒマワリたちは、恨めしそうにその生き残ったヒマワリを睨んでいる。
不穏な空気。
すこし、不気味だ。

これだから、枯れたヒマワリは苦手だ。
どうにも、おどろおどろしい。
真っ青な空との対比が、妙にインパクトがあって、心をつかまれる。

そんなヒマワリたちを横目に、一直線の道をまっすぐ進み、左折して、園に向かった。



向かいながら、今のような光景もまた、忘れたくない夏の景色だなあ、としみじみする。
枯れたヒマワリも、それを気味悪いとおもう気持ちも、夏にしか味わえない感情なのだ。


でも、それらをずっと覚えておくことは、きっとできない。
これから秋が来て、冬が来た頃には、枯れたヒマワリのことなんか、とっくに忘れている。
青空の下で、茶色くなったヒマワリを見て、「なんだか恐ろしい」と感じた気持ちのことも、すっかり忘れて。
夏の暑さすら、思い出せなくなる。
日常の景色なんて、そんなもんだ。


残すには、書いておくしかない。
見たままを、感じたままを、ありのままに描写して記録しておくしかない。

そして、その文章をふたたび読んだとき。
言葉の後ろに、今日見たヒマワリの光景がよみがえってくれたら。

夏の景色は、永遠に残り続ける。
言葉によって、忘れられない思い出になる。


そんな文章を書けたらいい。
そんなnoteになったらいい。


◇◇◇


自分が思い出すために書くのもいいが。
あわよくば、わたしの文章が、どこかの誰かの「記憶」を呼び起こせれば、もっといい。


島田潤一郎さんの『あしたから出版社』に、次のような文章がある。

本を読むということは、知らなかったことを知るということであり、忘れていたいろんな記憶を思い出すということでもある

同書、p.383



わたしのnoteは、読み手に知識を増やすことはたぶん、できない。
真新しくて、有益な情報をプレゼントすることもできないし、トレンドや何かのハウツーを学ぶのにも役に立てない。

でも、わたしが見たまんま、感じたまんまのことを書いておき、それを誰かが読んだとして。
わたしの文章と、読んだ人の遠く彼方の記憶とがつながってくれたら。

その人はきっと、なにかを思い出す。
それが、あったかくて、優しい記憶だったら、とてもいい。

そんな文章を書けたらいい。
そんなnoteになったらいい、とおもう。

◇◇◇


どんなことが書きたいか。
どんな「note」にしたいのか。

昨年9月から「note」をはじめて、もうすぐ1年が経とうとしている。
いろいろ書いて、やめて、自分が書きたい記事はどんなものなのか、探ってきた。

ようやく、少しずつ、見えてきた気がする。
いや、まだまだこれから。
あるいは、ひとつの答えなんてなくて、わたしが日々変化するのに応じて、書きたいこともnoteのあり方も、変わり続けるのかもしれない。

何はともあれ、ひとまず今は。
目の前の光景を、ありのままに書き残そう。

それが、未来の自分や、どこかの誰かの「思い出す」につながるかもしれないから。

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