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暑いヒマワリ、暑くないヒマワリ。

一本道に、ヒマワリがならんで咲いている。

長男の送迎で、とおる道だ。
いつも地域のシルバーの方が、草刈りや清掃をしてくださっていて、ヒマワリもその方々がお世話しているのかもしれない。
数えていないが、数十本はある。
道の左側に立つヒマワリたちは、まるで行列のように等間隔でならび、お行儀がいい。

夏になるまえから、通るたびに背が伸びていた。
長男と、「いつ咲くだろうね」と眺めていた。
長男は園で「ひまわり組」なので、登園時にヒマワリが見えると、いつもその話をした。


今月の半ば。
気づいたときには、皆一斉に咲いていた。
黄色い花びらをまとったヒマワリたちは、道を走るわたしたちを、毎朝見送ってくれるようになったのである。


ヒマワリたちは、背が高い。
わたしの身長159センチなんて、ゆうに超えた長身で、おそらく2m近くあるように見える。
大きな緑の葉っぱが、元気に広がっている。
まっすぐに伸びた茎も、たくましい。
でも、いちばん上の花の部分は、日に日にその頭をもたげはじめた。

重いのだ。
細いからだに対して、重すぎる頭の花。
最初の数日こそ、朝日にむかって元気に顔をあげていたが、すぐに全員が首を曲げて、こちらにお辞儀をするようになった。

まるで、首だけを下に向け、うなだれているようにも見える。
そのうち、花までしおれてきて、だんだん元気がなくなってきた。

「暑そうだね」

長男が、言った。
たしかに、ヒマワリさん、暑そうですな。

朝の8時にとおるころには、すでに太陽も照り始めている。
ずらりとならぶヒマワリのほとんどは、そのまぶしすぎる太陽にウンザリしたように、首を下げて、ため息をついているように見えてくる。

長男と、猫背の彼らを「暑そうなヒマワリ」と名付けた。

「暑そうなヒマワリ」が並ぶなか、まだいきいきとしているヒマワリがいくつか見える。
おそらく咲くのが遅れたもので、昨日今日にようやく咲いた子なのだ。
彼らはまだぴんぴんとしていて、太陽の日差しもアスファルトの熱気もよく知らない。
長男と、元気な彼らを「暑くなさそうなヒマワリ」と名付けた。

そして、わたしと長男は、
「暑そう、暑そう、暑そう、暑くなさそう、暑そう…」
とヒマワリの列を数えながら、その道をゆっくり車で走って、園に行くのが日課となった。

◇◇◇

「夏の景色」は、一瞬で過ぎ去っていく。

まもなく、このヒマワリたちも枯れるんだろう。
一斉に茶色くなって、葉もしおしおに枯れ、やがて倒れる。
そのころには、見苦しいからとシルバーさんたちが撤去するかも。
枯れたヒマワリはおどろおどろしいので、わたしもあんまり見たくはない。


夏の景色は、そんなふうに、終わりまで一瞬のようにおもえる。
「セミ」だってそうだ。
一瞬で、その命を終える。

セミ大嫌い人間のわたしとしては、セミの命が一瞬で終わろうと知ったこっちゃないのだけど。
やっぱり「夏」というのが、どこか「はかなさ」を感じさせるのは、こういう一瞬で過ぎ去る一面があるからかもしれない。

花火も、おまつりも、冷たいこおりも。
そのときだけは、その存在感をきらきらと輝かせているのに。

終わるのは一瞬だ。
花火は消え、おまつりは終わり、こおりは溶けて消えてしまう。
あとには、しずかな時間がのこるだけだ。
それもまた、「夏」を感じさせる。

そんな「夏らしさ」を味わいもせず、「暑い、暑い」と叫ぶだけなんて、もったいない。
たしかに、めちゃくちゃ「暑い」けど。

息子たちにも、「暑い」だけでは終わらない、「夏」のよさを感じさせたい。
そのときだけの「夏」の景色や、「夏らしさ」を存分に味わわせて、「夏」を好きになってほしい。
そのためにはまず、わたし自身がどんどん「夏」を見つけたいなあ。


ヒマワリが、枯れるのはいつだろう。
あわよくば、もうしばらくはそこにいてほしい。
わたしと長男が、もういちどその道を通るときまで、どうか太陽と戦っていてください。
涼しい部屋で、応援しています。

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せっかくなので、「夏」らしい企画はないかと探していたとき、よづきさんという方のステキな企画を見つけた。
「はじめまして」なのだが、勝手に参加。
どきどき。
夏らしい作品が、「note」にたくさん増えるのは、楽しいことだ。

すてきな企画を、ありがとうございます。


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