見出し画像

『アメリカン・ユートピア』を再び見て、大きな勘違いに気がついた

先日、デヴィッド・バーンの『アメリカン・ユートピア』を映画館で見ました。映画館では昨年2回観ているので今回で3回目です。映画館で再上映されているのを知り、もう一度見たいと思ったので行ってきました。今度は監督とバーンの対談付きでした。やっぱり私はこの映画が大好きだなあと思いました。

昨年見たときは、デヴィッド・バーンのステキな老いっぷりに心動かされました。もちろんステージでのパフォーマンスと映画の完成度あってのことですが。いい感じに人生が集約されていっているのがステキだなと思いました。

その時の記事は↓

今回は前に興味を持ったことにはあまり意識が向きませんでした。今回見て思ったことは、私たちが大きな勘違いをしてこの世界を生きているのではないか?ということでした。

どういうことかというと、私たちは本来、自分たちの持っている才能を生かして、クリエイティブに表現をし、楽しむためにここにいるのではないか?と感じたからです。そうして、この世界は楽しさと幸せに満ち溢れたクリエイティブな世界になる予定だったのでは?と。

私はアートをしていた人間だし、今も根元はアート系だなあと思うので、そういうふうに考えてしまうのかもしれません。
この世界を舞台として、みんなが生き生きと自己表現をして、世界を彩り豊かにしていくのが地球という惑星ではなかろうか?

まだそのプロセスの途中かもしれないので、今の地球の状態で結論づけるわけにはいきませんが、軌道修正は必要ですね。それさえもエンターテインメントの一つと見れば、それもまた楽しみの一つではありますが、もっと美しさがほしいですね。

人生最初のレッスンがすでにまちがっている

私たちは生まれてから自我が確立するまでに大人からいろんなことを教わります。そこで「世の中はこういうもの」「人生とはこうあるべき」「こうなるのが幸せ」「こんな人になりなさい」などいろんなことを学びます。
それが正しいとは限りませんが、幼いまっさらな意識にそれらが入ってくるので、疑いなくそういうもんだと思ってしまいます。ある程度成長すれば、反感や疑問を感じることもあります。しかし自分が属する集団の常識や風習、慣習などの暗黙の了解は意識の奥深くに刷り込まれます。

「一生懸命勉強すれば、出世して人生安泰」「お金は大事だから貯金しなさい」「人生はつらいもんだ」「人を信じちゃいけない」「努力しないと報われない」などなど、いろんなことを言われて育ちます。
これらの刷り込みを信じ込み、私たちはすっかり勘違いの洗脳されてしまっているのではないでしょうか?

あなたはどんな家族の中で育ったか?

ポジティブで楽観的で意識の高い親に育てられた人はラッキーです。まわりに、人生やこの世界、宇宙について深く考えたり、自分のやりたいことをしたり、幸せそうな人たちばかりがいれば、人生って、この世界ってそういうもんだと思えます。

ただ、いくら幸せそうに見えても「衣食住が満たされているから幸せ」という物質的幸せであるのなら、それは世間のいう幸せや成功に安住しているだけですので、幸せごっこといえるでしょう。それでもそれなりに幸せですから、そこに満足しながら終わる人生も悪くありません。

しかし多くの人はそうではありません。いろんなストレスや悩み、不安を抱えて過ごしている人が多いです。テレビからはネガティブな報道が流れるし、毎日ロボットのように働いて、何のために生きているかわからず、ストレスがたまっています。
最近は「世の中おかしい」と思う人も増えてきました。
「こんなはずじゃなかったのに」と感じている人もいます。

この世界は素晴らしい

『アメリカン・ユートピア』は世間の重苦しい雰囲気を弾き飛ばします。
映画の中でも、個人的悩みや社会問題、戦争や死についての話も出てきます。
それでも「人生は捨てたもんじゃない」「この世界はすばらしい」「人はおもしろい生き物だ」と希望を感じさせてくれます。

私たちはこの世界を素晴らしく輝かせるために生まれてきたんだ。
自分のやりたいことを自由に表現して、みんなで楽しみ、喜び、幸せを満喫するために人生があるんだ。それらをクリエイティブに表現し、完成度を高め、美しい世界を作っていくことに人生の醍醐味があるんだ。

私たちの意識の根っこにこういうことが根強く根づいていれば、この世界はまったく違ったものになっていたのではないでしょうか?

要するに、一人一人に「世界をより良くする」「世界を慈しむ」「そのために自分に何ができるか?」という前提が備わっていたら?ということです。
これは教育で教えることができることですが、今までの教育は「個人が社会で勝ち進んでいくか or 従順に従うか」という社会に適応するための教育が中心でした。

そうではなく、個人個人がいかに自分の才能を生かし、世の中をいい方向に変えていくか?楽しむか?の教育であれば、クリエイティブにならざるを得ません。
クリエイティブになるということは自発的に発想し、行動するということです。常識や学んだことに従っていては何も変わらないのです。

ネガティブイメージが先行する今の世の中

現在は、人生や社会、人間関係に対して、ネガティブなイメージや「こうであらねばならない」という条件付きの承認ばかりが先行しています。

本来、もっと自由なものではないか?
一人一人が自由に自分の生き方や人生を決めていくべきではないか?

いつのまにかそれができない、やりにくい社会になってしまっています。と言ってもここ数年随分とマシになりましたが。
一人一人が自発的にクリエイティブになると統制がとりにくくなります。
今起こっている世界統一に向けての様々な取り組みは、逆説的に私たちの意識革命を促すのでは?と私は思うようになってきました。
彼らは人々を完全管理下におきたいのでしょうが、その抑圧が増すほどに、逆に向かう意識も誘発されます。各自の意識度合いによってパラレルワールドが分かれるかとは思いますが、どちらが優勢になるかの瀬戸際な気がします。
人は自然を超えられないので(人も自然なので)、人為的なことより自然が勝つのでは?と思います。しかしある程度の人々の意識がそこに達しなければなしえません。

創造力をもって自分の個性を生きることは強い力となる

アメリカンユートピアで表現されている、演奏者がみんな裸足でコードなしの楽器で生き生きと演奏している世界観。グレーのスーツを着ているけれど、それが個性の抑制になるのではなく、グレーな世界であるからこそムダが省かれ、洗練された空間になり、個人個人の魅力がより引き立つ場となっています。

言い換えれば、上からの圧力で支配されようと、私たち一人一人が一人の個性ある人間として存在している限り、創造力をもって表現をしていく限り、私たちが自然である限り、それは本来の地球の姿、人の姿であるから、それは何者にも壊せないのではないだろうか?と思うのです。

楽観的かもしれませんが、創造力をもって自分の個性を生きることは本当に強い力となります。その部分を抹殺されてきた私たちですが、もうそのままそこに甘んじていてはいけないと思います。甘んじれば、家畜社会の一員となります。

それがイヤな人は本気で自分の人生を変えることを考えて行動した方がいいです。そうする人が多ければ多いほど、世の中は面白い方向に反転するでしょう。

映画の中では、人生山あり谷ありで、つらいことやわからないことも多いけど、それらも全部ひっくるめてすばらしい世界だよねというメッセージを感じました。この映画やパフォーマンスの完成度が高いこともまたそれを感じさせてくれるのだと思います。あれほどのものを作りあげるのは相当な時間と手間がかかっていることが見受けられます。デヴィッド・バーンの人生の集大成と言ってもいいと思います。

自由には自己探究、自己責任が伴う

「自由に表現していいよ」と言われることに多くの日本人は苦手意識があります。人の真似をしたり、大勢がしているからとそれに従う方が楽です。

自由に表現するには自己探究や人生経験が必要になります。それでやっと自分の表現したいことが見えてきます。「表現」といってもアート的なことだけでなく、何かの研究や趣味、生き方なども含まれます。
今までそういうことをしてこなかった人は戸惑うでしょうが、今からでも見つけていって欲しいです。そういう意味でもこれからコーチングは重要な役割を担っていると思います。私はライフコーチをしているのでよけいそのニーズを感じるのでしょう。

私自身、抑圧されてきた一人です。昭和時代の女性ですから。
親は典型的な”大衆”です。「常識や世間のいう通りにしなさい」と言われ続けてきました。その呪縛から逃れるのに苦労した半生です。

改めて、この世界に生きるということは、人生や世界を楽しみ、自分を成長させ、自由な表現を模索し、世界をより美しく創造することに貢献することだと再認識しました。

私たちはみんな、この世界を創造していくアーティストです。
あなたはどんな世界をつくっていきたいですか?
そのためにどんな表現や貢献ができると思いますか?


映画館で見た後、Amazonプライムでも見れるようになっているのに気づきました。また観たいと思います。何度見ても飽きない映画です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?