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「命の母」が私の激情に蓋をしてくれた話

私には、月に一度、人知れず真夜中に天井の一点を見つめて号泣する日がある。

無能感が全身をぴっちりと覆い、私のなけなしの自尊心を窒息させる。箸の上げ下げ一挙手一投足、すべてが人より劣っていると痛烈に感じる。過去の自分の大きな失敗や最近の些細な会話の行き違いまで、大小さまざまな嫌な記憶が私の脳内に大挙し、フラッシュバックがメモリを占拠する。たまらず「あばばばば」と奇声をあげたり、体が自然にびくっと震えてしまうこともある。そしてその気分の波が真夜中になって最高潮に達すると、先述のように、身じろぐことも声を上げることもできないまま、ただただ静かに天井の一点を見つめながら号泣することしかできなくなる。

こんなことが20年近く続いてきた。
思春期から続くこの習慣を、おかしいとすら思ってこなかった。

それが、20代の後半からピルを服用することで生理周期が整うようになり、30歳を過ぎてやっと、その波が生理のきっかり2週間前にやってきていることに気がついた。もともと未熟な自尊心を抱えたままネガティブな人生を送ってきたことに自覚はあるものの、ことこの期間においては、私の自尊心の問題ではないことがわかってきた。

思い通りにならないけど、私の体

月経前不快気分障害(PMDD:Premenstrual Dysphoric Disorder)―― つまり、私の意識の外にあって体をコントロールしているホルモンバランスに原因があったのだ。

女性の生理は、平均すると一生涯で約494回
一人の人生のうち、生理期間を合算すると6年9カ月にも渡ると言われている。

これまで自分の体で起きてきた「生理」という現象。理解はしているものの、そこまで興味を持って自分にどんな影響を及ぼしているかなんて、考えたこともなかった。だいいち、自分の体や自分の精神は、まぎれもない自分のものであり、コントロールできない自分にすべての非があるのだと、思い込んでいた。

それは違う。私の体は「ままならない」ものだ
これについては哲学、社会学、生物学、美学、様々な学術的な見地から語られ続けているテーマだと思う。

ホルモンバランスひとつで、メンタルの調子は急転直下する。どんなに私が私の意思で、社会で他者と折り合いをつける術に長けて心の安寧を図れるようになったとしても、時にホルモンの影響を受けた感情は、成熟しようとつとめる理性を軽々と飛び越えて、いともたやすく不安定な状態へ傾いてしまう。つまり、私は社会のなかでしか生きられないが、私の肉体は社会の持ち物ではないのだと思い知った。肉体は肉体で勝手に、体内に備わった原始から受け継がれているルールに従って、種の器として私の意識抜きにこの体を運用しているにすぎない。

正直、厄介だ。私が男性として、あるいはホルモンバランスにそこまで影響を受けない別の女性として生まれていたら、こうはならなかったかもしれない。答えがわからない「もしも」なら、いくらだって考えられてしまう。

コントロールできないものを「私」として抱えている、その危うさを体験する出来事が先日あった。そのとき私の体で何が起きていたのか、私の感覚の及ばないところで、自分がどう変わってしまったのか、この場を借りて少しまとめてみようと思う。

私は危うさを体験した一連の出来事を「壁ドン事件」と名付けた。登場人物は夫と私。べつに夫が俗にいう「壁ドン」をして私をときめかせた話じゃない。

私が壁に頭を打ちつけて夫をドン引きさせたのだ。


壁ドン事件の真相

先日、PMDDにあたる期間中、ミジンコのくしゃみくらい些細なことで夫と険悪なムードになった。私のエッセイに度々登場する夫は、優しい一方で、けっこう頑固な一面もある。私が「いまやったほうが後々楽なのでは?」とすすめても、彼自身がやる気になるまではテコでも動かない。そういう人なのだ。そうだとわかっているから、普段は言いながらも期待はしていない。私が言いたいだけだから、結果がどうであれ言うだけ言って気が済んでしまう。……いつもは。

そう、いつもはその筈なのに、その日の私はおかしかった。
夫が私の言うことをきかない。
このことが、無性に、腹が立ってしかたがなかった。

先に断っておくが、私は普段から喧嘩や口論、人との諍いが本当に苦手だ。場を納めるためなら自分を簡単に差し出してしまう損な癖をいいかげん治したいと思っているし、だいたい、他人をコントロールできるなんて、おこがましい。自分が手を動かしたほうが早いから、自分でやってしまおうと色んなものを抱えこみ自滅する失敗を繰り返してきた。

そんな内省的な私が、その瞬間、我を忘れた。
降って湧いた怒りの感情に飲み込まれた。
かあっと頭に血が昇って、視界がぎゃんと狭くなる。

そして、目の前で自分の意のままにならない夫に対して、心の底から「なんで私の言うことを聞いてくれないんだ」と強く腹が立った。

そして、底意地が悪い考えが脳裏に浮かんだ。

「夫が大切にしている自分を自分自身で痛めつければ、俺が悪かったと態度を改めて、私の言うことを聞いてくれるんじゃないか」――。

恐ろしいことにそう閃いてしまった私は、早速その場で、ためらうことなくめいっぱい背を反り、彼の目の前で派手に壁へと頭を打ち付けた。

ごん。

壁に衝突した痛みで、ちょっと我に返った。
夫はあっけにとられて、普段3ミリほどしか動かさない眉を1.5センチほど上げて、目を剝いていた。額にはくっきりと横三本の皺が寄っている。「仰天」という言葉を辞書でひくと、きっと図説にこんな顔が出てくるはずだ。

私も、その表情を目にして、それまでの熱に浮かされたような身体感覚から一転、急に現実へと引き戻された。さっきまで体中をくまなく支配していた怒りは嘘だったみたいに霧散し、あるのは恥ずかしさと後悔。側頭部にじんわりと拡がる鈍い痛みが、「いまの行動は紛れもないお前がしたものだぞ」と目を醒ました私に突き付けているようで、余計に辛さが加速していった。

やばい。
やばいやばいやばい。

いま、私はこの人になにをした?
いま、私はこの人を間接的に痛めつけて、意のままにしようとしていなかったか?
だめだろ。なにもかもダメだろ、それって。

その夜、真っ青な顔をした私は夫に何度も何度も謝罪しながら、「今後私はあなたを傷つけない自信がない。とにかく病院に行きたい。どうしよう、自分が恐い」と自分をコントロールできないことに半ばパニックになり、体力が尽きるまでひたすらに泣いていた。翌日も通常通り仕事がある夫を付き合わせ、混乱の夜はしばらく続いた。

昨夜のそれと生理周期が関係していることに気付いたのは、翌日の朝、手帳を開いて仕事のスケジュールを確認していたときだった。仕事のこととなれば冷静に、いつも通り振る舞うことができるのに、どうしてそんなことをしでかしてしまうのだろうか。

このままじゃあダメだ。私はまた些細なことで苛立って大切なパートナーを傷つけてしまうかもしれない。どうにか、どうにかして通常に近づけなくちゃ。

そして同じように生理前の症状に悩む知人が、漢方薬を飲んでいたことを思い出した。私は財布をひっつかんで家から飛び出した。行き先は近所のドラッグストアだ。

そう、ひとまず、漢方だ。漢方を服用してみよう。だめなら病院だ。
私の脳内にはその時点で、とある商品の画像がどでかく引き伸ばされていた。あっ、小林製薬!のCMでおなじみの、あれだ。

「そうと決まったら、命の母だ!」

命の母がもたらす心の凪

私が買い求めたのは、「母」の名の付く市販の漢方薬「命の母」だった。

更年期症状を対象としているイメージが強いが、一方で、生理前から生理中の不調を対象にした漢方が配合されている糖衣タイプのものもあり、私はそれを選んだ。

これが私には効果てきめんだった。3回ほど服薬を続けたあたりから、ずっと不安定に波立っていた気持ちが、一気に凪いだ。まるで並々と注がれ続け、無尽蔵に溢れていた情緒のお椀に、ぴっちりとラップで蓋をされたようだった。何も感じない。過去をくよくよしたり、何気ない一言にイラっとしたりもしない。怒りや悲しみのノイズが消えて、嫌なことのフラッシュバックも起きない。そうなって初めて、自分はホルモンバランスにここまで干渉を受けていたのか、と驚いた。

ちなみに、私には合っていたが、知人はあまり漢方が効かず、婦人科に通院しているそうだ。だから個人差があるものだし、婦人系の病気の症状の可能性もあるので、この記事はあまり真に受けず、不調が続くならどんどん気軽に病院に行ってほしいと思う。

こうして私は、晴れて穏やかな日常を取り戻した。本当に快適だった。急に強くなったような気分すらして、いままでどうしてあんなに悩んでいたんだろう、こんなに小さな白い糖衣の錠剤を飲むだけだったのに、と馬鹿馬鹿しい気持ちも湧くほどだった。

だが、しばらくして、あることに気付いた。

「何も感じない」という平穏は一方で、私の生活をとても味気なくさせる。

凪いだ海では船は進まない

何も感じないということは、感情が鈍っているということでもある。例えば凄惨なニュースや記事を見聞きしても「どうしてそんな酷いことが起こってしまうんだろう」と怒りを感じなければ課題意識が働かないし、「前回のミーティング、今思えば周りの人の反応ってこうだったかもしれないなあ」と、不安を感じなければ自省が働かない。怒りと課題意識、不安と自省が、どのケースでも直結している訳ではないと思うし、そこにも個人差はあると思う。しかし、風がなく凪いだ海では船は進むことができないのだ。

それに、さっきまで情緒が不安定で困っていた人間が、薬を飲んで束の間の平穏を取り戻したかと思えば、いきなり薬を飲むのはどうかと否定するような言動をしていれば、それこそまさに情緒不安定に振り回されているような気になってしまうかもしれない。

しかし、ネガティブでおろおろしたり、うじうじしたり、おんなじところをぐるぐる回って考える人間だから、見つけられる答えがあったり、その視点が機能することだってあるんじゃないか、とも思う。書く仕事をいただいて取り組むとき、私は取材対象の思想や発言をめいっぱい尊重したい。その人の発言は、その人だけのものだ。私がその価値を決めてかかっていいものではない。そこには私の内省的な思考癖も、一役買ってくれている。

30年という月日のなかで付き合ってきた、私の体。ホルモンバランスの乱れによる情緒の変動もすべてひっくるめて、もはや生き様として簡単に分別できないほどに複雑に入り組み、癒着した内省的な私の思考癖なのだ。

薬を飲めば、確かに楽になる。だけど、薬を飲み続けて自分の感情や思考癖を、ある意味「殺し」続けることは、なんだか違う気がする。

これからも私は、月に一度、天井を見ながら号泣する日の前には「命の母ホワイト」を服用するだろう。しかしそれは飽くまで、私の大切なパートナーを傷つけず、自分を過度に追い詰めてしまうのを防ぐ最低限のセルフケアのためである。

面倒で、思い通りにならない私の体。しかしこれすらも、すでに私の人生のうえでは避けて通れない、大切な私をかたちづくるものなんだと思う。そして、そう言える資格を持っているのは、その「ままならなさ」を自分として受け入れ続けなくてはならない、まぎれもない私だけなのだろうとも。

おまけ

Twitterで「遠藤ジョバンニ 命の母」で検索してみたら、過去にこんなことを思っていたらしい。

なれるといいね

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