武道、スポーツ等身体を使うものは、自らの動く姿以外で教えてはならない理由

その動きの微細部こそが、伝えるべきものだから。

伝えるべきものは「動きの大枠」ではない。それはどんなにそれらしく見えても、まがい物である。

それで納得してしまい、誰かを教え始める等、ハナシにならないのである。

なぜそういった現象・動機が発生するかというと、虚栄心以外に何もないのである。

手っ取り早く習得したことにして探求から逃れたい。褒められたい。誰かに教える人物だと思われ、評価されたい。

それらは全部煎じ詰めると、他人からの評価である。内に到達すべき光が見つからないからそれに逃げるのである。

そもそも、どんな達人の素晴らしい動きでさえ、伝わる可能性など1%以下である。それでも自らの光を体現すれば何かを伝える可能性があるのだ。

だが、まがい物の指導はそれらが0%であるどころか、いつかの可能性さえ奪う。教え子にゴールさえ間違わせ、向かう先を光から闇に変える罪である。

内に見つかる素晴らしい真実が光であるとすれば、それが見つからずに他人からの評価で埋め合わせる行為は闇である。

闇の実態、それは型であり、手っ取り早くそれらしくみせることはできるが、いずれ、その動きの真の調和性=微細部=真の意味=イデア的なもの への到達を妨げるものである。

権威や立場を用いて、自らの実力を欺き、自らの闇の姿を光に見せかけ、光を求める他人を欺く行為は、それらに輪をかけた罪である。

まず、自らの姿勢を明らかにしなさい。

何に気づき、何を求め、何に向かっているのか。そして現状のそれを体現してみせなさい。

その上で、「教えられます」「先生です」「できるようになります」「〇〇のような経歴があります」といった肩書・マーケティング・宣伝・誇張・詐称をすべて取り除いてみなさい。

そのときに、あなたの姿に集まった人の質と数が、あなたが何かを伝えられる可能性のある、真の実態である。

ほとんどの人は0かごく少数になるであろう。

その恐ろしい現実こそが、あなたが何かに辿り着くとすれば唯一の0ポイントである。そして、多くの真の偉人たちも(彼らも世俗のテクニックを使えばいくらでも有名で金持ちになれたにもかかわらず)そこから始めたのだ。

真の課題から逃げずに何かを始めてみなさい。



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