無知は罪からの防護服
正確には、無知=感性の遮断
感性とは主に、真・美・善を捉える力であり、同時に理性・美感・罪悪感の繊細さである。
感性の遮断とは、理性・美感・罪悪感の遮断である。
知識も力も、なんであろうが、これらを増すかあるいは鈍くなるかのどちらの方向であるかをみれば、その正体を見極めることができる。
どんなに社会的・世間的・表面的・その他いかなる立派さを演出しようが、上記の方向性を見れば一撃で、それらの本性が分かるのである。
無知が愚かなのは、知識が足りないからでも、努力が足りないからでも、不勉強だから、でもなく、単に上記が欠如するからだ。
そもそも人間は生きている間、自然に備わった真・美・善を捉える力によって勝手に学んでいくものである。つまり、努力の類は必要ない。
これらがなされていないとすれば、それは、単に「ごまかしている」だけなのである。
低俗な人間が、自分のことを、「頭が悪いから、知識が足りないから、努力が足りないから、不勉強だから」などと言って謙虚なフリをするが、それは実態とは違う。彼らは「ごまかしている」のである。
「誤魔化している」という、ただ一点を指摘されないがために、偽りの謙遜を見せているに過ぎない。本当は彼らは開き直っているのである。
それを昔の人は悪魔だのサタンだの堕落といって表現した。解像度は低いけどね。
人間がせねばならないことは、「ずるさ」との闘いのみである。
そして「ずるさ」の根源とは、肉体と物質であり、掘り下げていけば、抗いようのない「ずるさ」だけが残る。それは人間の肉体的意味での根源であり、交尾であり出生である。
その矛盾にあなたは耐えきれるか?
耐えきった行き止まりの末に、運が良ければ光を見ることができるかもしれない。 責任は取れないがね。
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