広く深く長く愛される競技とはー アンチ・オタク&マニアック

A.競技を深め、追求したときに、マニアックな人間ばかりが寄り付くようないびつな構造でないこと。

皮肉なことに、あらゆる競技は突き詰めることで崩壊する。

崩壊しないとしても、寄り付きにくくなり、本質から離れ、マニアックになり、異様性が高まり、ある種の「気持ち悪さ」が出てくる。


突き詰めるーそのこと自体は素晴らしいし、自然なことだ。

人間は突き詰めることで進んできたのだから。


しかし、人工的に作られた「競技」には必然的に欠陥がある。

「人工的」な「競技」を「突き詰める」と、その3つの条件が合わさると、

必ずと言っていいほど、何かが狂ったマニアックな人間が台頭する。


健康的な体型を競うフィジークも、いつのまにか、脱法薬物ステロイドをどううまく使うか?の大会と化し、

神聖な感覚をもたらすはずの相撲は、糖尿病デブの汗臭い押し合いになり、

ピアノのコンクールは、ラフマニノフ マニア人間で占められ、

Eスポーツもカードゲームも音ゲーも、狂った表情のオタクの大会になる。

スポーツ業界も多少マシとはいえ、似たような原理が働いている。


初期の頃はどれも、どこか感動的で、可能性を感じさせ、気軽で、プレイの幅も広く、自由で、魅力的なものだったのに。

いつの間にか堅苦しい基準で競うようになる。


なぜそうなるかといえば、結局のところ、競う対象が低レベルで分かりやすいな「量」とか「数」ばかりになるからだ。

人にとって「量」とか「数」はとにかく分かりやすい。

早さだの、密度だの、難易度だの、デカさだの、量だの。


なにかの競技で順位を決めるときに、次元が低い人間に納得感を与えるために、ルールや評価基準は次第に世俗化し、分かりやすい「量」とか「数」の争いに帰着する。

そのルールの元で、競技者が「突き詰める」と、結果的に、ルールの穴を突いて、「量」とか「数」で一番になろうとする。

そして、感動的で、可能性を感じさせ、気軽で、プレイの幅も広く、自由で、魅力的な、ものを求めていた、ライトなある意味正常な感覚を持った層が次々に違和感を感じて離脱していく。

「なんか楽しくないし、気持ち悪い、、」と。


そんなものをよそ目に、勘違いワールドで得意になったオタクやマニアック人間が、そいつら同士で褒めあい、何の普遍性もないその界隈だけで通用する謎の定石を編み出しては、教えあい、さらにのめり込んでいく。

企業も運営側も、そいつらが、ライト層よりも圧倒的、狂信的に金を落とすから、そいつらをメインターゲットにするようになり、施策もそいつら向けになっていく。2割のそいつらが、8割の金を落とすからだ。(2:8の法則についての解説)

一方で新規顧客を獲得するために、広告とか絵柄だけはライト層むけになり、あるいは「伝統ある競技を通して礼儀や立派な人間がうんぬん」などと、訴えかけるが、実態とはかけ離れており、そこの乖離と矛盾が大きくなっていく。

ライト層は広告等に「騙されて」入ってくるが、気持ち悪い雰囲気に嫌気がさして離脱する、という流れができあがる。


こうしてほとんど全ての「界隈」は独自の「気持ち悪さ」に染まっていき、その中で、ライト層を取り込もうとするが、「気持ちの悪い雰囲気」「気持ちの悪い文化」「気持ちの悪い風習」「気持ちの悪い序列」「気持ちの悪い経済」などで動いているため、

つまるところ、「界隈でうごめく気持ちの悪い人達の都合」によって動いているため、いつまでたっても発展しない。


結局、何が問題かといえば、

「気持ち悪い人間を飼いならさないと回らない経済」

「金の出所はどうでもいいから儲けたい企業や運営」

「悪い意味で似た者同士で寄り集まる場」

「〇〇界隈で、デカい面をしたい人間」

「人工的な競技のルールの欠陥」

「それを評価したり褒めたりする人間の感性の欠陥」

こういった気持ち悪いものが合わさって、そういうしょうもない現象が起こっている。


競技を通して、人間として総合的に、健やか、さわやか、健康、快適、魅力的になれなかったら何の意味があるというのか?

そもそも、それを見失った者たちがなんの競技・何の界隈で謎の序列を作り出そうが、余計気持ち悪いだけだ。


だから、俺は色んないくつかのジャンルの競技で、日本一(世界一)になったが、「あ、キモイ、無理」と感じてさっさとフェードアウトした。

最初は偶然かと思ったが、肉体ジャンルだろうが、芸術ジャンルだろうが、頭脳ジャンルだろうが、どのジャンルでも同じように臭いはキツかった。


全部、その逆をやればいい。 今俺はそうしている。

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