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私が手帳を書き続ける理由と原動力について

投稿の間隔があいてしまいました。
大学に入学し、実生活が忙しくなりました。
そのおかげで気付けたこともあるので有り難い忙しさではあります。

今日は私が手帳を書き続けている理由と原動力についてお話したいと思います。
全くまとまりがなく、話が行ったり来たりするので読みづらいと思います。
推敲しようと思いましたが、しんどいので諦めました。
余力が出たら書き直す部分があるかもしれません。


また、トラウマ体験(特に性被害)がたくさん含まれる記事なので、今トラウマを抱えてPTSDや適応障害など疾患に罹患されている方は注意してお読みください。
もしくは、症状が安定してから読むことをおすすめします。






私は小学校受験が盛んだった80年代後半〜90年代前半に都内の私立女子校に入学しました。
電車通学は真新しくて、大人たちと同じように電車に乗っている、しかも一人で、というのは嬉しくもありました。

けれど、制服が可愛いことで有名な学校なことが災いして、一年生の時から登下校時に痴漢に遭うようになりました。
最初は一体何が起きているのかが分からず、けれど不快で不安がとても強かったことを覚えています。
最初は怖くて不快だったものが、受け入れざるを得なくなり、次第に諦めていきました。時折助けてくれるおばさまもいらっしゃったけれど、大人は誰も気に留めてくれませんでした。
小学校時代は加えていじめにも遭い、渋谷の井の頭線のホームで同じ通学路の子に突き飛ばされ、電車とホームの隙間に落ちたこともあります。

結局耐えられなくなり、小学校6年生の一学期で退学して地元の小学校に籍を置きましたが、とても通える精神状態ではなくて、数日しか通いませんでした。
地元の中学校に行くのが嫌で適当に受験して受かった中学の通学時も本当になんでそんなに私をすり減らしていくのか、また諦めるしかないような痴漢に遭い続けました。
親に相談してもあやは体型がね、と胸の大きさを理由にされたり、理解してくれる年上の人がおらず、苦しみました。
そんな折、家庭科で使う布を買うために池袋のキンカ堂に立ち寄った時のこと。
急に視界が真っ暗になって、その次にとてつもない衝撃を感じたと思ったら、ハイエースのようなタイプの車の中でした。
ここからは言わなくても伝わるかもしれませんね。
大学生くらいの男性6名くらいに、輪姦されました。
もうその時のことは殆ど覚えていません。
思い出そうとしても思い出せないんです。身体の痛みと血と、なんだかぼーっとしながら池袋の東口の階段を降りて山手線に乗ったことだけ覚えています。
ブラウン管の中から世界を見る事ができるとしたらこんな感じなんだろうなぁというフラッシュバックが今でも稀にあります。今もこれを書いていると手が震えるし、動悸がします。
まぁ、抗不安薬を飲んだので頑張って書きます。
私はもう汚れてしまったし妊娠するかもしれないしでも私の体型が男の人を誘ってしまったから私が悪いんだと思い続けました。
親にも姉にも相談できず、自分を傷つけるために剃刀を使いました。
もっと汚れれば楽になるかなと思って、売春もしました。結果、楽にはなれませんでした。
精神科にもかかりました。
でも本当のことは何も言えなくて、欲しい薬の名前を列挙して、たくさんたくさん出してもらいました。今は処方制限があるからそんなことは出来ませんが、当時は欲しい薬を言うと処方してくれる精神科医が多かったのは事実です。
何回も過量服薬をして、救急車のお世話になったのは両手では足りないくらいです。
とうとう中学も通えず、高校も1年だけ。
15歳の時一度、3日間意識が戻らなかったことがあって、意識が戻ってすぐは何で死ねなかったんだろう、この死に損ないが、と自分を責めました。

それと時をほぼ同じく、国の難病にも指定されている潰瘍性大腸炎を発症しました。症状を簡単に説明すると、大腸内に潰瘍(えぐれた炎症部分)が出来て、慢性的な下痢が続き、進行すると腸内出血する病気です。最初は胃腸炎だと思っていましたが、かかりつけの内科医が、それは大きい病院で見てもらわないとならないと、大学病院を紹介してくださり、内視鏡検査の結果、潰瘍性大腸炎と病名が付きました。
白血球除去療法や顆粒球除去療法、ステロイド…その当時あった使える治療法はすべて試したのに一向によくならず、炎症性腸疾患を専門に診ている病院へと転院しました。そこで基本の処方を調整したり、入院をしたりして、今現在は再燃と寛解をゆっくり繰り返している状態です。
この病気のやっかいな所は、昼夜時を問わず、お手洗いに行かなければいけないことです。
便失禁(うんちを漏らす)をするというのは本当に屈辱的で尊厳を踏みにじられる思いでした。
精神科にはその時もかかっていたけれど、薬を処方してくれるならどこでもいいや、という気持ちでドクターショッピングになっていました。
なんで私ばっかりこんな目に遭うのかなぁ……。って。
まだ続いていた抑うつ状態が一気に悪化して、同じ病院の精神科にもかかることになりました。
そこでは先生が厳しく約束させたり薬の処方をスッキリさせてくれたりまぁここでは書けないような色々があり、ある日予約日に「先生!!!!私もう大丈夫です!元気になりましたーーー!!!!!」と、完全に躁転した状態で診察室に入ったことによって病名が付きました。
それまでは重度PTSDと解離をメインに診ていただいていたのですが、今は躁うつの維持と、まだ時折出るフラッシュバックや解離症状をチェックしてもらっています。(解離とは自分から幽体離脱したように周りがぼんやりして見えたり(解離・離人症)、記憶をなくしたり(解離性健忘)、他の人格が出現する(解離性同一性障害)、気づかないうちに知らない場所にいる(解離性遁走)というのがよくある症状です。私は離人と健忘、解離性同一性障害でした。)

潰瘍性大腸炎では、一日の便回数と形状、粘液があったか、下血があったかを観察することが大事になります。ここで体調管理のための手帳を使い始めました。今でも同じ手帳で同じ使い方をしています。
使っている手帳はほぼ日手帳のカズンで、バーチカルに体調管理を記入しています。一週間を見渡せて、症状の増悪や減退に気付けるようになって、食べ物も私には合わないものなどが分かるようになりました。これが一番続いている手帳です。カズンが発売された年から使い続けています。
年間に生理日や特筆すべき体調の変化、月間にその日のニュース、週間バーチカルに便回数、起床就寝、体温(潰瘍性大腸炎では炎症が強くなると発熱するため。)服薬、頓服やそれ以外の薬の記録、睡眠薬の内容、服薬時間、躁うつ病の診断がついてからは気分の上下(+5つで真ん中がフラット、軽躁、躁、軽うつ、重症なうつ)を書き込んで、備考欄に体調や精神状態の特記事項やその日のトピックを書いて、その下にはその日一日に食べたものを書いています。一日1ページは日記。その日の出来事をとにかく思い出せることはなんでも書いています。書き始めた当初は解離性健忘もひどく、自分が知らないうちに買い物をしていたり、性的奔逸があったりしたので、とにかく記録することが大切でした。


記憶をなくさないための記録、潰瘍性大腸炎の再燃を回避したい気持ちというのが私が手帳を書く理由と原動力です。

またいつ記憶をなくすか分からないと不安になる日もありますが、手帳を書き続けるうちに、解離症状は少しずつ良くなり、それに加えて夫との出会いや助けもあり、今は人格は私だけになりました。(夫からすると時々違う人に見えることがあるそうですが、記憶を連続的になくすことはなくなりました)

ひとりめの産後は精神状態が悪く、医療保護入院をしたのはまた改めて書きたいと思います。その時も手帳は私の大切な相棒で私を支えてくれるツールでした。その時書いていた内容は知りたいという方がいればサークルでお話しようと思います。(あまりにも特異なことなので閉鎖空間のほうがいいだろうと思うからです。)

とても長くなりましたね。最後まで読んでくださった方が一人でもいらっしゃったら嬉しいなぁ。

こんなにやけくそで生きてきた人間もうまいことツールを使えばなんとか生きていける、というお話でした。

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