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事実などない、あるのは解釈だけだ

神は死んだ

当時は主流だった「神」という存在(概念)を信じて生きる人間を真っ向から反対し、「人はどうすれば良く生きられるか」「どう自分を肯定するか」という新たな目線を持ってそれを世に広めたのがかの有名なニーチェだ。

今でこそそんな思想は当たり前だ、神なんていないんだからもっと地に足つけて生きなければと思えるかもしれない。
ただ、そんな風に思える今の私たちの思想はこのような過去の人々の営みから派生していったものに過ぎない。近代のような教養も道徳も思想観も浸透していない時代で目に見えない「神」というものを信じて生きた方が楽だったに違いない。
科学も何も現代のように発展していない時代に突然大地が揺れ、空が光ったかと思えば轟音と共に何かが走り、山が吹けば一時の闇に包まれ、恵の雨さえ姿形を変え襲ってくる。これを目の当たりにすれば誰しも神が怒っているに違いないと考え、神を信じ、祈りを捧げるのも無理はない。
事実、何かを信じるという行為そのものは人間の弱さでもあり強みでもあるように思える。

さて、そんなニーチェだが今回主として紹介したいのは他にある。
それがこちら

事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。

これは例としてコップに入った水で説明できる。

コップの淵まで入ってる水があるとする。これを半分まで飲むと残った水の量は半分となる。
この残った半分の水に対して、「あと半分もある」または「あと半分しかない」と思うかは 「人による」=「解釈次第」となる。

ただその一方で、「半分残った水」というのは事実として考えられそうに思える。しかし、これをニーチェは「半分残った水」というのは事実ではなく、これも単なる私たち人間の解釈だと言うのだ。

半分というのは昔々、私たち人間の誰か頭の良い人が半分とはこういう事にしておこうと決めた一つの概念的なものであり、事実としてあるものではない。
「これくらいの重さで1グラムにしよう」「この液体の量でℓにしよう」というのは誰かがそう解釈をして名付けたものに過ぎず、それを今の私たちはあたかも昔から事実として存在しているかのように何も考えずに利用しているに過ぎない。

事実はなく、あるのは解釈。

こう考えると、これは森羅万象全ての事に言えるのかもしれない。
全ては誰かの解釈から成り立っているのがこの世界。
つまり、誰かの基準が入り混じって成り立っているのがこの世界なのだからあなた自身の価値基準を押し殺してまで誰かに合わせる必要はない。
なぜならすでにあなたも私も誰かの解釈(基準)の中に生きているのだから。

自分なりの解釈で物事をもっとみてみようと思う。
解釈が変われば全てが変わる。

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