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"私"というアイデンティティと形なき"モノ"

昨日、まるで刃こぼれしたナイフで心臓を貫かれるような、なんとも心地の悪いじわじわした痛みと恐怖に襲われた。

"私"の存在価値とやらはなんなのか。
そんな事をいくら考えても無駄なことは知ってる。
生まれてきた意味や理由、使命や価値などという形無いものについてあれこれと想像を膨らませるのはは、知能だけは一端に発達させた人間の愚かな生理行動の一つとも言えるのかもしれない。

ただ、それでも昨日の光景には驚きと感動、そして同時に絶望に近いものを感じてしまった。
それが、昨今流行りのChatGPTである。

ChatGPTとは、対話に特化した言語モデルでありWebサービスの一つ。
従来とは比べ物にならないその文章の作成スピード、情報量(レパートリーの豊富さ)、正確性には本当に驚きを隠せなかった。

そして、それは外国語から外国語へのいわゆる「翻訳」のレベルもGoogle翻訳やその他の翻訳サービスとは天と地の質の差があると感じた。

そこでふと思い出したのが、以前私が綴ったnoteのとある記事。

AIがますます発展していく世の中で、果たして外国語を学ぶ必要性があるのかという、なんともありきたりなテーマながら、いち関係者の私としては目を逸らしたくても逸らせない死活問題であることを綴ったnoteだった。

ただ、私の想像を遥かに超えて、世界中の天才達がAI技術の発展に貢献しているのであろう。
日本語→スペイン語、スペイン語→日本語の翻訳は文法的にも非常に正確で、かつ文章の質も素晴らしかった。
自然な文体、ワードチョイス、多少の意訳といった人間の特権だったものを少しずつ我が物にしているAIの前に、覚悟はしていたがなすすべなかった。

それからというもの、AIというものが、徐々に実体を帯びているような錯覚を覚える。

そんな中、大好きなオスカー・ワイルドが残した言葉の中でも特に、私の心を掴んで離さない言葉が頭をよぎった。

人間の持つ思想は、誰か他人の思想であって、
 その人生は擬態であり、その情熱は借用である。

オスカー・ワイルド

小説家さながらに優美な文章をAIが綴ったらどうだろう。
ソムリエさながらに官能的な表現をAIがすればどうだろう。
今、あなたが感動しているその小説、絵画、ワインといった文化的芸術・嗜好作品を作ったのがAIならどうだろう。

ワイルドのこの言葉のように、結局オリジナルなんてものはなく、全てが何らかの模倣(パクリ)から生まれているのだとすれば、、、
AIが人間さながらに振る舞った場合、見方を変えるとそれは、人間の模倣から命を宿した新たな生命と言えるのではないだろうか。

そう、これまで私たちが先人達の命を模倣、借用して今につなげ、"私"というアイデンティティを築いてきたように。

誰かが言っていた。

「AIの発展とは、人類が残せる最後の偉業だ」と。

その意味の真意に一歩近づけたような昨日だった。


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