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そこにイジメがあったのに。あんた何してた。

二度目の非常事態宣言が発令される前の話なんですけどね。高校生の頃に仲良くしていた友人と久々に話す機会があったんです。その時にね、自分はなんて能天気に学生生活を送っていたんだと、びっくりして、そして呆れて。鈍感だったんですよね。今もなのかな...。仲良しに見えていた友人たちの間に亀裂が入っていたり、他クラスから嫌われている友人がいたり。当時見えていなかった人間関係について、その友達は教えてくれたんです。


さて。


私の友人の一人、仮にNさんとしましょうかね。Nさんは活発で明るくて、行事にも前のめりな愉快な人でした。私はクラスの皆もNさんに対してそういった印象があるのだろうなと思っていました。しかし、クラスメイト達は複数の理由から、Nさんとの関りを最小限にしていたという事実を今になって知りました。Nさん自身もそのことについては薄々気が付いていたと。私はその事実に全く気が付いていませんでした。Nさんとも学生特有のおふざけをしていましたし、クラスメイトとも毎日のように一緒にゲラゲラと笑っていました。

イジメの定義は明確ではないので、この事実がイジメとされるのか否かはわかりません。でもきっと、Nさんが精神的に苦痛を感じていたのならイジメに分類されるのだと思います。イジメという現象は典型的に、加害者、被害者、傍観者の三つで構成されます。そして傍観者の無責任っぷりがしばしば問題になります。私はその傍観者でした。無自覚な傍観者です。

村上春樹の『沈黙』という作品を思い出しました。「大沢さん」がおそらく「青木」の流した根拠もない噂によってクラスメイトに無視されるという話。「大沢さん」は主人公の「僕」に、本当に怖いのは証拠もないただの噂を鵜呑みにする人の存在である、と語ります。つまり、なんにも考えずにただ流れに身を任せることは、誰かを傷つけているのかもしれない、と。

当時の私はなんにも考えていませんでした。もしかしたらクラスメイトの空気を察したNさんは静かに目立たないようにしていたかったのかもしれない。クラスの雰囲気を温かいものだと信じ切っていた私がNさんにきつい思いをさせていたかもしれない。はっきりとそこに存在するイジメを傍観するのも、それに気づかずにいることも、誰も救えていないという点では同じです。どっちの罪が重いとか軽いとかそんな話じゃなくて。

「大沢さん」対「青木」、Nさん対クラスメイトの内の一人ならば、それはイジメではなく対立だと思います。どちらかが複数になれば対立はイジメに近づきます。そんな時、周囲の人間はどうするのが得策なんでしょうか。自分の頭で考えて、周りの意見や空気に流されずに、自らもその人間関係の中に存在しているという自覚を持つこと、なんですかね。難題です。


無自覚の傍観者って、どうしようもないと言ってしまえばそうなんでしょうけど。「あの時全然気づかなくてさ~、だからしかたないよね、ごめんごめん」だなんて言えるはずもなければ思えるはずもありませんよ。なんで気づいてあげられなかったかな...って、後悔の嵐。溜息の嵐。