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年間第26主日ミサ:シェガレ神父の説教

C 年間26主日  
ルカ16,19-31 金持ちとラザロ  渋川 2022

今金持ちとラザロのたとえ話を聞きました。金持ちの家の門の前にラザロという一人の乞食が横たわり、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たそうとします。今でも日本を始め世界中の街で、金持ちの食べ残ししか食べられないラザロのような人がいます。非常に現実的な描き方です。現代で言えば路上生活をしているホームレスの方とか、高級住宅街を歩き回りゴミ箱の中に残飯を探す人とか、上層階の人々に捨てられた残飯を食べる人々の人々に似ています。彼らはマザーテレザの言葉を借りれば、残飯だけではなく愛に飢えていて、服だけではなく人間としての尊厳を求め、家だけではなく自分を聞き入れてくれる相手が欲しい人々です。  
 登場するもう一人の人は金持ちです。彼はラザロと違って名前は知らされていないが、いわゆる世界の富裕層を象徴するような人物で、高級マンションに住み、贅沢な服を着、よく遊び、毎日を楽しく生きる人。
 この人に関して金持ちである以外は何も分かりません。しかしアブラハムから「子よ」と親しく呼ばれるので悪い人ではないでしょう。彼はおそらく教養があり、信心深く、礼儀正しく、施しの掟を守っていて、慈善事業にたくさんの寄付をしているかもしれません。
 だが彼には一つだけの問題があります。門を通るたびに目の前に横たわり苦しむラザロの存在にはまったく気づいていないのです。
 金持ちとラザロはやがて死んでしまい、舞台は死後の世界に移るが、二人の状況は逆転します。金持ちは黄泉に連れられて、炎の中で苦しんでいるが、貧乏人はアブラハムの隣の席に案内され、天国で行なわれている宴会の喜びを味わっています。目を上げる金持ちは初めてラザロの存在に気づいてコンタクトを取ろうとするが、天国と地獄の間に大きな淵ができて、コミュニケーションが取れないとアブラハムが知らせます。地獄と天国の間にあるこの淵は、生きている間に目の前にあった人の痛みに気づいていなかった金持ちの無関心によって作られていたと思います。
 マザーテレザは「愛の反対は憎しみではなく無関心だ」という明言を残し、真の愛は周りの人への関心から始まると言っていました。人に関心がなければ慈善事業や施しのわざは自己満足に終わってしまう恐れがあります。他者に無関心である人は結果的に淵を掘り自分の地獄を作ります。
 最後に金持ちは、アブラハムにラザロを兄弟たちに遣わし、彼らは苦しい地獄に落ちないように警告の言葉を言い聞かせて欲しいと頼みます。しかしこれも無理だとアブラハムが答えます。兄弟たちはいくら地獄の話を聞かされても、神の言葉に耳を傾け、隣人に関心を持ち、回心しないかぎり、何にもならないと。昔は教会の神父は説教壇の上から地獄の話をよくしていて、信者を悔い改めに迫っていたそうですが、効果はほとんどなかったそうです。聞いていた人は怖くなるだけで、心を変えて悔い改めに至らなかったわけです。福音のメッセージの中心は、地獄の恐れではなく神の愛そのものです。
 恐れの中から信仰や悔い改めの意志は生まれてくるはずがないのはイエスの一貫した教えです。悔い改めるにはまず神様に信頼を置き、ゆるしを信じ、心を無関心から関心に変えていくことが大事です。今日、私たちは神が示された思いやりと哀れみに習う決意を新たにし、困った兄弟に対して無関心をやめ、許しと回心の恵みが与えられるように祈りたいと思います。

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