リアル推しになるか、ならないか
昨日、ハッとすることを言われたので、書いておこうと思う。
ある仕事を作って、それを進めている途中。少しブレーキがかかりそうなことがあった。要は、売り上げの奪い合いだ。
私は「仕事は経験だから、何があってもやりきる」のスタンス。やり切ればその先が見えるから。報酬はお金だけじゃない、経験は変えがたい報酬だ。だから経験だけもらえればいい。そんな考えを持っていた。
なので、仕事のパートナーとして一緒にプロジェクトを進めている人にもそれを伝えてみた。
しかし、返ってきた答えは
「あなたがそういう考えだと、誰も応援してくれなくなっちゃうよ」
頭を引っ叩かれた感覚になった。
それはそうなんだ。確かに。でも、そういうことなのか。一人で仕事をしているわけではないから、何が大切か、さまざまなのはわかるけど。譲れないものは誰にでもあるんだな。
そしてこんなにも実は、みんな内包していて目的は明確なんだな。と、自分の視野の狭さをちょっと呪った。
ある人は、権力に、ある人は名声に、ある人はお金に。ある人は感謝に。誰かのために。でも、誰かのために仕事をするということは、奉仕という形だけではないんだ。
誰かの喜びや、つながりに感謝をする機会、うれしさにつながるアクション。それが名声とかだったりするんだろう。
つまり、私が有名になって頑張っている姿が、誰かの励みになる。シンプルにそういうことなんだろう。でも、その人たちの実際の生活には直接的には関係がない。
BTSにはアーミーというファン層が存在する。それは、彼らBig HitやK-Popのマーケティング戦略のたまものなのだが、彼らがどんどん上に行くのが嬉しい、人生の喜びだという。
しかし彼らアーミーにとっての生活、資本基盤的な部分には何も関係がない。なぜ、自分の稼いだ資本を彼らに流すのだろう。それはよく日本でも言われている「推し」文化の存在である。
ひたすらに自分の人生の時間を、「推し」につぎ込む。そのエネルギーは恐らく毎日の生活の楽しさに繋がる。しかし、それがなくなった後は抜け殻のようになってしまうのではないか。
誰かの推しになることは、誰かの喜びになる、ということ。それはそれで素晴らしい。
でも思う。名声や権力を得たからといってそれは自己の欲求を満たすことができるのか?
人間の1番高みの欲求は「自己超越」じゃなかったのか。
仕事を頑張って、報酬をもらって、その喜びを分かち合う。それはいいことだ。かなりの幸福度だ。
でも、権力や名声のためなんかじゃないよなぁ。
私は、丸く収まるなら物事を置き換えて柔軟に対応したい。その方が生きやすい。頑なに、カタチあるものに拘っているととても苦しいと思う。
でも、全く皆違うんだな。こりゃ組織は難しい。
一生懸命に、人のために何かをする。もちろんそれは自分のためにもなるんだと思う。
生きる上で、何を大切にしてどう死にたいのか?私は表ではない、立体的な存在としていろんな人に認識されて死んでいきたい。
そして、誰かの推し、になるのはとても幸福なことなんじゃないかと改めて思う。
きっと、そこに必要なのは『感謝の気持ち』と『一生懸命さ』なんじゃないかな。
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